ピダハンの世界への旅⑶

 

 エヴェレット氏によると、イビピーオとは、出来事そのものではなく、出来事が人の知覚に「入る/出る」その境界を捉えるピダハン独自の経験概念であり、対象の同一性よりも知覚の中への出入りそのものが重視されるとのことだ。ということは、イビピーオが支配する世界では、「世界はあるか?」ではなく、「それは今、経験の中に現れているか?」だけが問われることになるので、ピダハンにとって世界の実在という概念が問題化されるということはほとんどない。以下に、ピダハン語における際立った特徴をまとめる。

 

「比較級がない」

 比較級とは、対象間の差異を相対的に表現するための文法的装置であり、多くの場合、対象をある尺度上に位置づけて比較する表現を可能にする。それによって、世界は「比較可能な差異をもつ対象群」として言語化されやすくなる。

 それに対して、比較級を文法的に持たない言語では、対象間の差異は明示的なスケール化によってではなく、文脈依存的・状況記述的に表現される傾向が強い。この場合、相対的な順位付けや数量的比較よりも、個々の状況における状態や現れの記述が中心となる。

 したがって、比較級をもつ言語では差異が抽象的な尺度として表現されやすいのに対し、比較級をもたない言語では、差異は直接経験に密着した形で語られやすい、と言うことができる。

 

「色名がない」

 ピダハン語には、赤・青・緑といった抽象化され固定化された色カテゴリー語は存在しないとされている。一方で、彼らが色の違いを知覚していないわけではなく、色は物や状況に結びついた表現や比喩的な記述によって語られる。たとえば、赤は血に、緑は未熟さに関連づけられるなど、色は独立した属性としてではなく、具体的な対象や状態の一部として言語化される傾向がある。

 エヴェレットはこの点について、ピダハンが感覚経験を抽象的な一般概念としてコード化することを避け、状況依存的な表現を用いると指摘している。

 一般に、色名とは感覚を一定のカテゴリーにまとめる概念操作の結果として成立するものであり、世界を分類可能な対象として把握するための一つの言語的手段である。その意味で、色カテゴリー語をもたない言語では、色は独立した属性としてではなく、物や出来事に埋め込まれた経験的特徴として表現されやすいと言える。

 

「複数形がなく、数量詞がない」

 複数形とは、個体の複数性を文法的に標示する装置であり、必ずしも正確な数や完全な同一性を前提とするものではない。また、数量詞には「三つ」のように数量を抽象的に示すものから、「少し」「たくさん」のように経験に密着した表現まで、さまざまな段階が存在する。

 したがって、複数形や正確な数量詞を文法的に持たない言語であっても、話者が複数性や量を認識できないわけではない。ただしその場合、数量や集合性は抽象的な数概念として明示的に表現されるのではなく、文脈や状況に依存した形で語られる傾向が強いと言える。

 

「接続語がない」

 接続語とは、出来事や事態の関係を文法的に明示するための言語的手段であり、それ自体が関係の理解や論理的思考を生み出すものではない。接続語を文法的に持たない言語であっても、話者が出来事の順序や因果関係を理解し、それを語ることは可能である。

 ただし、そのような言語では、出来事同士の関係は接続語によって明示的・固定的に表現されるのではなく、語順や文脈、反復などに依存して示される傾向がある。その結果、発話は抽象的に構成された物語というよりも、具体的な出来事や経験の連なりとして語られやすい。

 エヴェレットが指摘するように、ピダハンの発話は原則として発話者自身、あるいは同時代の第三者によって直接経験された出来事に基づくことが多く、この点において、遠い過去や仮想的出来事を抽象的に再構成する語りは制限される傾向がある。

 

「完了した過去を説明する表現がない」

 完了過去とは、出来事の完了性や時間的位置を文法的に表現するための言語的手段の一つであり、必ずしも出来事を現在から切断したり、客体化したりすることを本質とするものではない。

完了過去やそれに類する表現をもつ言語では、出来事を完結したものとして捉えたり、現在との関係を明示的に区別して語ったりすることが文法的に容易になる。一方で、こうした表現を文法的に持たない言語においても、過去性や完了性そのものが欠如しているわけではなく、それらは文脈や副詞的表現、語用論的手段によって示される。

 したがって、完了過去を文法的に持たない言語では、出来事は抽象的な時間区分として切り出されるよりも、現在の状況との関係の中で語られやすい傾向があると言える。この点で、時間は測定や分類の対象としてよりも、具体的な経験の連なりとして表現されやすい。

 

 以上から分かるように、比較級、色名、数量詞、接続語、完了過去に共通するのは、連続する経験の流れからある側面を切り出し、それを文脈から独立した安定的な対象や関係として言語的に保持・再利用するための抽象化装置であるという点である。

 これに対して、イビピーオという概念は、出来事そのものや抽象化された関係ではなく、出来事が知覚の中に「入る/出る」その境界、すなわち直接経験の現れ方そのものに重心を置くピダハン独自の世界認識を示しており、イビピーオが支配的な世界においては、出来事は同一性を保った「もの」や時間的に完結した「過去の事実」として保存されるのではなく、現在の知覚の中に立ち現れ、やがて消えていく経験の推移として把握される。したがって、経験を切断し、保存し、再構成することを前提とする比較、数量、論理的接続、完了した過去といった文法装置は、ピダハン語において中核的な役割を担わず、常に、今ここで知覚されている出来事の提示として話は成立することになる。

 

 この点から見れば、イビピーオは単なる語彙的特徴ではなく、ピダハンの世界認識の根幹であると同時に、その言語構造や思考様式を根底から支えている原理であることが分かる。そして当然の帰結として、抽象化を最小化するこの経験原理は、彼らの生活様式そのものをも深く規定している。

 例えば、イビピーオに基づく時間認識においては、過去や未来は現在から切り離された独立領域として構成されず、現在の経験に付随するものとしてのみ把握される。その結果、過去を保存・再解釈することを目的とした儀式的伝承や体系化された歴史、創世神話といった抽象的時間構造は発達しなかった。

 同様に、天国や地獄、正義や罪、神聖、信仰、真理といった経験を超えて持続すると想定される抽象概念も、世界を理解する中心的枠組みとはならない。それらが「理解不能」であるというよりも、直接経験に根ざさないために、重視されず、制度化されないのである。

 将来よりも現在の経験が優先されるため、将来に対する不安や、最終的な将来としての死も、抽象化された未来的恐怖として構成されない。死は認識されてはいるが、それは遠い未来に投影された観念的対象ではなく、経験の延長線上にある出来事として受け止められる。この意味において、エヴェレットが述べる“No fear of death.” とは、死そのものの否認ではなく、死を抽象化された未来的恐怖として構成しないという態度を指していると理解すべきであろう。