動物は、「存在」という言葉を使わずに生きている。
それでも困っている様子はない。
むしろ、その言葉を必要としているのは人間のほうなのだろう。

もし人類が滅びたら、「存在」という観念もまた、役目を終える。
そのとき、この世界について「存在する」と言う者はいない。
同時に、「存在しなくなる」と言う者もいない。
どちらの言葉も、人間の思考の中でしか息ができないからだ。

 

では、人間がいなくなったあと、世界はどうなるのか。
そう考え始めた瞬間、私は自分が同じ場所をぐるぐる回っていることに気づく。
「どうなる」と問うこと自体が、すでに何かが「在る」ことを前提にしている。
どうやら私は、「存在」という言葉から自由になれないらしい。

だが、ここで否定したいのは世界そのものではない。
山や川や風が、私たちと運命を共に消えてしまうと言いたいのではない。
ただ、世界を「存在するもの」として捉え、言葉を与え、意味づけてきた
私たちの考え方が、そこでは通用しなくなる、というだけのことだ。

 

「存在」という観念が失われたとき、
世界は無になるわけではない。
ただ、私たちの問いが届かなくなる。
それは世界の沈黙ではなく、
問いを発してきた側の声が途切れるのだ。

それでも私は、この問いを手放すことができない。
「存在」という言葉は、考えるという行為そのものに絡みついている。
それを外そうとすると、思考そのものがほどけてしまうような気がする。

 

けれども、もし最初から
「存在するか、しないか」などと考えずに生きる人々がいるとしたら。
世界をただ経験し、語りすぎない人々がいるとしたら。
彼らのもとでは、この問いは
そもそも問いとして立ち上がらないのかもしれない。

 

この問いの答えは、
案外、ピダハンの頭の中にあるのではないだろうか。