「『量子力学では、絶対的真理は存在しない。』と物理学者は言うが、この命題は真理を主張しているのではないのか。」という問題について考えてみたい。
まずこの命題の構造について考える。
命題:「量子力学では、絶対的真理は存在しない。」
この命題を主張すること自体が「ある真理(=絶対的に正しいこと)」を述べているように見える。従って、「真理は存在しない」という主張が真理であるとすれば矛盾することになる。
この自己矛盾を避けるために、物理学者はこの命題を次のように解釈する。
「量子力学では、絶対的真理は存在しない。」というのは、量子力学という理論体系の内部における記述であって、世界全体に関する形而上学的断言ではない。つまり「量子力学の理論構造の中では、観測によってしか確率的にしか命題が定まらない。」という限定的主張にすぎないとするのだ。このようにこの命題を解釈すると、この命題は「理論のメタ的特徴の記述」であって、「真理そのものの非存在」を主張しているわけではなくなり、矛盾は回避されることになる。
要するに、「『量子力学では、絶対的真理は存在しない。』という命題は、『量子力学はそのような性質をもつ理論である。』というメタ的記述であり、『世界に真理は存在しない。』という普遍的主張ではないので矛盾は生じない。」という解釈である。
以上のような解釈を認めるとすると、こういった表現自体に誤解を生む可能性が内在しているということ、つまり、「~は存在しない」という表現自体に問題があるということに気づかされる。要するに、この言語形式そのものに誤解を誘発する構造が内在しているのである。
命題「Xは存在しない。」と言うとき、我々はすでに「X」という対象を思考の中で想定している。つまり、「Xは存在しない。」と言うためには、まず「Xとは何か。」を思い描いていなければならない。ということは、この時点で、「思考の中ではXが存在している。」ことになるのだ。要するに、「存在しないもの」について言及するという行為そのものが、存在の前提を内包してしまっているのである。
さらに問題なのは、「存在」という語が言語的構築物であり、「存在」という言葉を使うと、現実の有無にかかわらず、言語の中に実体的な「ある」を作ってしまうのである。たとえば、「ユニコーンは存在しない。」と言えば、「ユニコーン」という概念が思考上に立ち上がり、それを「存在するかしないか。」という座標上に置いてしまう。この瞬間、「ユニコーン」という概念が思考上の「存在」を得てしまうのだ。つまり、「存在しない。」と言っても、「思考の中で存在してしまう。」という矛盾が生まれるのである。
以上から分かるように、科学的立場に立脚しようとするなら、「~は存在しない」という断定的表現を避け、より論理的に中立的な表現を使うことが、より正確な望ましい表現であると言えるだろう。
たとえば:「絶対的真理は存在しない。」は「絶対的真理という概念は、観測や理論の枠組みの中で定義できない。」に、「神は存在しない。」は「神という概念に対応する経験的対象は確認されていない。」に、「実在は存在しない。」は「実在という語の指示対象が明確に特定できない。」というふうに表現するのが適切なのではないだろうか。従って、物理学者は、「量子力学では絶対的真理は存在しない。」ではなく、「量子力学の理論構造の内部では、真理を絶対的に確定することはできない。」と語るべきなのだろう。
しかし、それでもなお、「存在」のエコーは鳴り止まない。物理学者は「絶対的真理の存在」の誘惑にそそのかされてはいないだろうか。
「存在しない」という表現は、「存在」という概念を暗黙に肯定してしまうため、本来語りえないものを語ってしまう危険をはらんでいるのだ。
