物理学者はヒッグス粒子の存在が証明されたと言う。彼らの言う「存在」は理論と観測結果の暫定的整合性を意味しているにすぎない。それなら、「存在する」という言葉を用いずに、「理論と観測結果が暫定的に整合している」と表現すれば十分ではないだろうか。それにもかかわらず、物理学者は「存在する」という言葉を用いる。理論と観測結果の暫定的整合性以外のメッセージを「存在する」という言葉に込めているからではないだろうか。

 

 いわゆる素朴実在論に基づく「存在」概念とは異なり、物理学で用いる「存在」という概念は洗練され厳密化された概念だと物理学者は考えているようだ。しかし、言うまでもなく、そもそもこの概念は物理学者が独自に考え出した純粋に科学的な意味の概念ではなく、幼少期に生活の中で習得した概念である。従って、たとえどれほど洗練し、厳密化しようとも、生活の匂いを消し去ることは不可能ではないだろうか。仮にこれが可能であるとするなら、そのためには幼少期に獲得した「存在」という概念の元来の意味を明確にすると同時に、この意味と物理学における意味との差異を明示できなければならないだろう。しかし、いったい誰にこれが可能だろうか。

 

 以上から、物理学者が「存在する」という言葉を使用する理由は、彼らが幼少期に獲得し、今もなお無意識に引きずり続けている生活の匂いの中にあると結論付けられるだろう。あるいは、この概念が社会的・教育的に「科学は真理を語っている」と信じさせる装置の役割を果たすためという意識的な理由も考えられるだろう。しかし、これは「この装置の使用者が自らの足元を忘れ、謙虚さを失う危険性」と「一般人が物理学者の言説に惑わされる危険性」につながる恐れがある、と危惧するのは私だけだろうか。