タイムトラベルの実現可能性に関して考察する中、科学とSFの狭間を彷徨う数多の物理学者の様々な意見に対して抱いた感想を述べることにする。

 

 多くの科学者は、科学が社会の発展を直接的に牽引してきたと考える傾向にある。しかし、この見解は因果関係の把握において誤解を含んでいる。歴史的に検証すれば、科学の進展はむしろ経済的基盤によって促進されてきたことが明白である。例えば、ルネサンス期においては、ガリレオやケプラーの研究が裕福な都市国家や王侯からの資金援助によって支えられていた。また20世紀には、冷戦下の米ソ両国が軍事的・経済的競争の一環として膨大な研究費を投じ、宇宙開発やコンピュータ技術の急速な発展をもたらしたのだ。そして、今日の物理学の進歩もまた、以下のような高額な素粒子加速器に依存していることは否定できない。

 

 例えば、世界最大の素粒子加速器は、スイスとフランスの国境付近にあるCERN(欧州原子核研究機構)が運営するLarge Hadron Collider(LHC)だ。地下約100〜175メートルに設置された全長27キロメートルの円形トンネル内で、陽子や重イオンをほぼ光速まで加速し、衝突させることで宇宙の根源的な謎に迫る実験が行われているのだが、このLHCの建設には、1998年から2008年までの10年間で約100億ドル(約1.5兆円)以上の費用がかかった。さらに、運用・保守・アップグレードにも継続的な資金が投入されると同時に、科学者・技術者・研究機関など、100か国以上から1万人以上が関わり続けている。

 

 また、中国で計画されている円形電子・陽電子衝突型加速器CEPC(Circular Electron-Positron Collider)は全長がLHCの約5倍の規模で、約35億ドル(約5,160億円)の予算で2035年完成を目指しているが、これも莫大な国家的投資なしには実現しえない巨大科学プロジェクトである。

 

 同様に、米国や欧州、日本などで進められている量子コンピュータ研究も、国家予算や大企業の投資を背景に進展している。これらは科学的ブレイクスルーの可能性を秘めつつも、経済力がなければ進まないことを如実に示す例である。

 

 つまり、「素粒子加速器の発展⇒物理学の進歩」なのである。では、いったいどこまで加速器の巨大化は進むのだろうか。物理学者は巨大化が果てしなく続いていくことを願っているかもしれない。しかし、経済的理由から、この巨大化が際限なく続けられていくとは考えにくい。今のところは加速器に必要な費用は賄えているようだが、いずれそれが不可能になる時期が必ず訪れるということは容易に想像できるだろう。そうすると、加速器の巨大化が止まったとき、加速器の発展に依存していた物理学はどうなるのだろうか。間違いなく進歩を止めることになるだろう。すなわち、自らの経済的基盤を顧慮しない学問は消滅する運命なのである。平易に言うと、いつの時代であれ、支援者の存在を無視した現実離れした学問は成立し得ないということである。科学者も理論の構築にあたってこのような現実的制約を真剣に考慮すべき時期に来ているのではないだろうか。

 

 以上のような現状認識から、「科学が世界を発展させるという理念を経済的基盤から切り離して語ることは、科学者を社会的実効性を欠いた夢想家に貶める危険を孕む。よって、科学研究は、歴史的事例と現代的事例の双方を踏まえ、経済と科学発展の不可分な関係を認識して行われることが不可欠である。」といった主張が導き出されるだろう。しかし、この程度の現状認識は当事者でなくても容易に推察できる程度のものであり、当事者である科学者はすでに次のような解決策を講じている。

 

 例えば、日本での建設が検討されている国際リニアコライダー(ILC)計画では、研究者たちは資金分担や国際協力の枠組みについて詳細な提言を行っており、ILC推進に関する文書では、ホスト国(日本)が土木建築費などを負担し、加速器機器や運転経費は参加国で分担するという構想が示されている。そして、米国や欧州の物理学者コミュニティもこの問題に積極的に関与しており、米国エネルギー省(DOE)や欧州素粒子物理戦略委員会などが、ILCへの支持や資金協力の可能性について公式に表明している。

 

 さらに、東京大学の素粒子物理国際研究センターなどでは、外部資金を活用した大型研究プロジェクトが進行しており、量子技術やヒッグス粒子の研究など、加速器を必要とするテーマに対しても国際的な資金調達と人材育成が行われている。

 

 つまり、物理学者たちは「資金がなければ進歩できない」という現実を受け止めつつ、それでも科学の未来を切り拓くために、政治・経済・国際協力の枠組みを積極的に構築しようとしているということである。しかし、ここには、これが単なる一時しのぎの対策にしかならないという事実やこの一時しのぎの資金調達の社会的意義に対する熟慮が欠落しているのではないだろうか。

 

 果たして、地球温暖化や人口問題を初め、様々な喫緊の課題以上に、物理学研究という狭い分野にこのような莫大な資金を投資する社会的な意義はあるのだろうか。科学の未来、そして人類の未来のために社会的に大きな意義があると物理学者は言うかもしれない。この考え方に対しては様々な異論が予想されるが、それは些末な問題であり、根本的な問題ではない。根本的なクリティカルな問題は、数学を武器にした精緻な物理学で宇宙の真理を解明できると物理学者が信じている点にある。それは次のような例にも現れている。

 

 近年、『時間は存在しない』というタイトルの書物が一般向けに出版され、話題を呼んでいる。もちろん、ここでの「存在」の意味は一般的な意味ではなく、物理学的な意味での「存在」である。であれば、あえてそれを一般向けに公開する必要はあるだろうか。二千数百年以上もの間、解決を見ない様々な意見のある難問に対するこのようなセンセーショナルなタイトルの書物の発表は、いったい何を意味しているのだろうか。それは、数学という武器を盾にして「真理を手にできる」という傲慢さではないだろうか。

 

 このような傲慢さが物理学者たちの無意識に潜んでいる限り、上記の問題は解決されることはないだろう。