ところで、前回、タイムトラベルの出発時刻(現在)を仮に2312年12月12日の12時ちょうどと設定して思考実験を行ったわけだが、果たしてこの設定自体可能なのだろうか。言い換えると、タイムトラベル出発時刻である「現在」とは現実にはいったいいつのことなのか。

 2312年の12月12日の12時0分0秒の私(タイムトラベラー)は、たちまち2312年の12月12日の12時0分1秒の私となり、そうこうしているうちに2312年の12月12日の12時0分10秒の私となる。つまり、私に意識がある限り私の「現在」は絶えず変化しているが、タイムトラベルの起点、すなわちタイムトラベルする際の原点座標(出発時刻)には、当然変化のない「静止した時間」を設定しなければならないのだ。

 しかし、幾何学上の点には面積がないが現実の点には面積があるように、我々が生きる現実のタイムは常に時「点」ではなく時「間」という広がりを持っているので、タイムトラベルの原点座標を設定すること自体がそもそも現実には不可能ではないだろうか。

 この考え方には、「私に意識がある限り私の『現在』は絶えず変化している。」及び「タイムトラベルする際の原点座標(出発時刻)には、変化のない『静止した時間』を設定しなければならない。」が前提となっているので、次はこの前提についてさらに詳しく考えてみることにする。

 まず、意識とは精神活動という動きである。よって我々に意識がある限り、我々の精神は常に変化する時間と共にある。従って、我々が意識上に捉えるすべてのものには変化する時間が伴うので、我々が時間について思考する場合も必然的に変化する時間が付帯することになる。ということは、「我々には『静止した時間(=変化しない時間)』というものを考えること自体がそもそも不可能だ。」と考えるべきではないだろうか。

 映画は1秒間に24コマのフィルムの連続によって構成されている。つまり、1コマのフィルムで1/24秒(0.04166666666…秒)の時間が再現されているわけだが、これが1コマ1コマに「静止した時間」というイメージを我々に与えるため、現実の時間も「静止した時間」の連続であるかのような観念を我々は抱きそうになる。しかし、もちろん映画の時間と現実の時間は全く異なる。映画のフィルムの1コマ1コマは連続しているのではなく断続しており、我々(鑑賞者)には目の錯覚で連続しているように見えるにすぎない。要するに、フィルムの1コマ1コマは現実には存在しないものなのだ。これは次のように考えると容易に理解できる。

 例えば、私を撮影した映画フィルムがあるとしよう。1コマ目のフィルムには0秒から0.0416…秒の私が映っている。ということは、この1コマの中には0.01秒後の私も0.02秒後の私も0.03秒後の私も0.04秒後の私も混在していることになる。しかし、これらにはわずかな違いがあるにもかかわらず、静止した1コマの私として通常理解されているのだ。フィルムの1コマに捉えられた映像の中には、ごくわずかな時間進行が肉眼では見えないブレとして常に記録されているわけで、全くブレのないフィルムなど存在しない。従って、映画の中にも「静止した時間」は存在していないのだ。しかし、それにもかかわらず我々は映画の1コマを「静止した時間」と理解するのだ。要するに、現実にはフィルム上に切り取られた時間などというものは存在していないにもかかわらず、我々は時間を「静止した時間」の連続としてしか理解できないため、タイムトラベルの原点座標(出発時刻)にも、変化のない『静止した時間』を設定せざるをえないのである。そして、次のように、計測法の歴史を考えてみると、これが我々人間の宿命であることが理解される。

 我々の祖先は太陽や月や星の動きから様々な時間の計測法を発明したが、それらにはすべて時間を自然数によって分割するという方法が用いられた。時間は断続的な自然数の連続ではないにもかかわらず、我々の祖先は皆、断続的な自然数を用いて時間を分節することによって時間を理解したのだ。やはりこれも、「そもそも我々人間には、『静止した時間』の連続と解釈しなければ、常に変化する時間を理解することは不可能である。」ということを物語っているのではないだろうか。

 以上で、タイムトラベルという考え方は、時間を「静止した時間」の連続として捉える解釈に基づいているということが明らかになったと思われるが、この解釈を通じて、我々は人間の認識の限界について考察する時点にようやくたどり着いたのだが…