「私は猫が好き。」という発言は「私は猫を肯定する。」という意味であり、「私は猫が嫌い。」という発言は「私は猫を否定する。」という意味だと思っている人がいるようだが、実はそうではない。なぜなら、「私は猫を肯定(否定)する。」と言うとき、一見「私」が肯定(否定)の判断基準となっているように思われるかもしれないが、基準とすべき「私」は相対的であり、「一定不変」という基準としての条件を満たしていないからである。ではこの発言はいったい何を意味しているのだろうか。

 実は、前者は「猫は私を肯定する。」ということ、後者は「猫は私を否定する。」ということを意味している。いったいこれは何を意味しているのか。理解しやすいように「私」を主語にしてこの命題を言いかえると、「私は猫に肯定(否定)される。」となる。「私は肯定(否定)される。」とは、言い換えると、「私は是認(否認)される。」ということであるが、是認(否認)される「私」とはいったい何だろうか。もちろん、(猫によって)私の全存在が是認(否認)されるわけではない。是認(否認)されるのは「私」の一部である。「私」は(猫によって)自分の一部が是認(否認)されるのである。「自分の一部が是認(否認)される。」とは何を意味しているのか。これを理解しやすくするために、食べ物(パクチー)を例に考えてみよう。

 例えば、「私はパクチーが好きだ(嫌いだ)。」という発言は、「パクチーによって私の一部が是認(否認)される。」と言い換えられ、「パクチーによって私の能力(味覚)の一部が発達しているか(いないか)が証明される。」を意味している。つまり、この発言はパクチー自体についてはいかなる情報を提供するものでもなく、パクチーの良さを理解する能力(味覚)の有無についての情報にすぎないのである。

 要するに、「私はパクチーが好きだ。」という発言は、「パクチー好きは私の長所の一つである。」ということ、「私はパクチーが嫌いだ。」という発言は、「パクチー嫌いは私の短所の一つである。」ということを意味している。そして、これと同時に後者は、「私の弱点はパクチーだ。」ということ吐露してしまっているのだ。「私はパクチーが嫌いだ。」という人には、「どうぞご自由に。」と答えるのが妥当である。これは趣味の場合にも同様のことが言える。

 「私はマーラー(の音楽)が嫌いだ。」と言うとする。以上からすると、これは「私の弱点はマーラーの音楽だ。」ということを意味しており、「私にはマーラーの音楽(の良さ)がよく分からない。」ということを吐露しているに過ぎない。従って、「私はマーラーが嫌いだ。」という人には、ここでも「どうぞご自由に。」と答えるのが妥当である。しかし、これは人の場合では少し状況が違ってくる。

 「私はF男(E子)が嫌いだ。」は「私の弱点はF男(E子)だ。」ということ、つまり、「私の中のF男(E子)はまだ未熟だ。」ということになるが、食べ物や趣味の場合と異なるのは、「未熟なF男(E子)がいる『私』は人間的に未熟な部分を抱えている。」ということを含意しているという点である。自分が人間的に未熟であるかどうかということに関心を抱くか否かは個人の自由であるが、この自己の未熟な部分に対してどのような態度を取るかによってはこの問題は単なる個人の自由の問題に留まらなくなるだろう。

 態度には2種類ある。一つはこれを自己の弱点として容認し、受入れる態度、つまり寛容(tolerance)である。もう一つはこれを自己の弱点として容認することを拒否し、自己の弱点の存在を否定する態度。すなわち不寛容(intolerance)である。自己の未熟な部分に対する個人間レベルの不寛容が殺人に至る可能性は低いが、民族間レベルや国家間レベルの不寛容では、大量虐殺のような悲劇を生みだす可能性も否定できない。我々は不寛容の歴史を忘れてはならない。

(写真:ササニシキ 5kg 230バーツ)