【なぜ肉食批判が受け入れられないのか】

 

  <罪悪感という原罪>

 

 以上の考察から導き出された結論は次のようになる。ヴィーガンが非ヴィーガンの批判対象となるのは、ヴィーガンによって人間の原罪である罪悪感が意識化されるからで、「僕はありがたいことに、うちの両親が命をいただくときに、感謝の気持ちを込めて手を合わせて『いただきますと言っていただきなさい。』って言って、僕はそういう気持ちで命をいただいています。それを娘にも教えています。」という田村氏の発言にも見られる、まさにこの「感謝の気持ち」こそは、この罪悪感の裏返しに他ならない。もしこの罪悪感を持たなければ、「感謝の気持ち」が芽生えるはずもなく、人間は人間以外の動物と変わりのない生き物となるのであるが、我々にはこれを受け入れることは決してできない。なぜなら、これを受け入れることは人間であることをやめることを意味するからである。

 したがって、ヴィーガンは「我々は人間であるのか否か」という究極の問いを我々に突きつけてくる存在なのである。この究極の問いを突き付けられるとき、我々はまず自らの原罪を意識する。そして次にそれに二通りの仕方で答えようとする。1つはこの罪悪感を意識的に引き受ける仕方、もう1つはこの罪悪感を意識の上では避けるが無意識的に引き受ける仕方である。前者はヴィーガンの生き方であり、罪悪感を全面的に認めて、この感情に忠実に従った行動をする、すなわち肉食を避けるという生き方である。後者は非ヴィーガンの生き方であり、この罪悪感を意識しないように様々な手段を講じる生き方である。両者共、究極の問いに対する回答方法としての役割は果たしており、共にその回答が「我々は人間である」という回答となる点では同じであるが、両者の間には大きな違いがある。

 

  <罪悪感の無意識化の仕組みについて>

 

 非ヴィーガンは、通常、罪悪感の意識化を回避する食生活を営んでいる。殺」シーンや「殺」を想起させるような罪悪感を意識化するプロセスをできる限り排除して生活している。そしてまた、「屠殺」は自分たちの生活にとって必要な仕事であるにもかかわらず、一部の人間に押し付けられ、しかも彼らを穢れた者として差別するという奇妙な状況が生まれたのである。

 差別とは何か。差別は区別とは異なり、合理的な根拠なしに両者の間に区別を設けることである。合理的な根拠のない区別。これが差別である。人々は、合理的な根拠が全くないにもかかわらず、「屠殺者」を自分達とは質的に異なる人間とみなし、その質的差異を穢れと考えた。つまり、「『屠殺』を行うものは穢れており、『屠殺』を行わない自分たちは穢れていない。」という論理である。この論理に従うことにより、罪はすべて殺者に転嫁されることになり、非屠殺者は自己を罪悪感から解放することに成功したのである。ここでの差別とは、自己を罪悪感から解放するために非屠殺者によって考案された妄想なのである。もちろん、合理的根拠の全くない「まやかし」にすぎない。

 したがって、非屠殺者である非ヴィーガンは自分たちが行っている行為がまやかしであることに気づかないように努めると同時に、その行為がまやかしであることに気づかされることを恐れている。つまり、非ヴィーガンは、抑圧された恐怖の形で罪悪感を感じているのである。ここにヴィーガンと非ヴィーガンの大きな違いがある。共に罪悪感を感じてはいるのだが、ヴィーガンは罪を罪として認める態度を取っているのに対して、非ヴィーガンはそれを認めることを拒否するという態度を取っていると言える。したがって、認めたくない罪悪感を認めさせようとするヴィーガンに非ヴィーガンが嫌悪感を感じるのは当然なのである。

 

  <結 論>

 

 ヴィーガンとは、その存在自体が非ヴィーガンの差別意識の告発者であるがゆえに非ヴィーガンにとって嫌悪すべきものであり、非ヴィーガンの立場を取り続ける限り、決して容認することのできない存在である。よって、非ヴィーガンがヴィーガンの肉食批判を受け入れられないのは極めて当然のことだと言える。