【なぜ肉食批判が受け入れられないのか】
<快・不快>
前回に引き続き、非ヴィーガンの批判対象とならない自販機やイルミネーションのヴィ―ガニズムとの差異についての考察を通じて、ヴィ―ガニズム批判の特性を浮き彫りにしていく。
自販機は我々の生活を便利にすることによって我々に間接的な快感を、イルミネーションは自販機以上に我々の目に直接的な快感を与えてくれる。それらがもたらす快感のお陰で、我々の多くはそれらをプラス評価する。一方、ヴィーガニズムが与えてくれる快感は間接的なものであるばかりか、直接的な快感を妨げるという形での不快感をも与えるので、マイナス評価されるように思われる。しかし、快感を与えてくれる場合にはプラス評価され、不快感を与える場合にはマイナス評価されると単純に考えてよいだろうか。そうならないケースとしてセックスの例について考えてみる。
人間はセックスの快楽的側面が非常に拡大した生物で、他の動物とは異なり、一年中発情期である。人間の三大欲求の一つとして、常に性欲は人間にとって非常に関心の高い欲求であり、セックスは極めて高く評価され、様々な活動の原動力となってきた。しかし、それと同時に、古今東西、自由セックスは禁忌であるのが一般的である。誰とでも自由にセックスすることはほとんどの人間社会においては容認されない。なぜなら、自由セックスは快感とは別の大きな不快感を人々にもたらすからである。この大きな不快感がどのようなものなのかや、快感を不快感が上回る原因がなんであるのかはここでは議論しないが、少なくとも次のことは言える。人間の評価の基準は単なる快・不快ではないということ。そして、人間は、自由セックスを禁忌とみなすことによって、自分達を人間以外の動物から区別しているということ。つまり、自由セックスという禁忌は人間が人間であることの試金石の一つなのである。
以上の考察から、単純に快・不快を評価の基準にすることには無理があるということが明らかとなった。では、我々人間にとって、いったい何が評価の基準なのか。
