【ピータ批判分析】
今回は、非ヴィーガンの参加者からのピータ批判、ヴィーガン批判を参加者ごとに分析する。
【田村氏】
<主 張>
⑴生き物を殺して食べると言う点では、魚を食べることも鶏を食べることも同じであるにもかかわらず、ヴィーガンは両者を区別しているが、区別すべきではない。
両者を区別しないと今井氏は言っているにもかかわらず、今井氏が両者を区別していると田村氏は執拗に主張し、そこにヴィーガンの考え方のいびつさを指摘しようとしているが、討論その11の終わりに今井氏が明確な回答をした後は、自分の予想が外れたため、田村氏はこの件には一切触れていない。「自分がヴィーガニズムによって感じる不快感の原因をヴィーガニズムのゆがみの内に見出し、不快感の原因が自分ではないということを自分に納得させることによって自己防衛を行う」ために田村氏はこのような矛盾した発言をしたのではではないだろうか。つまり、「防衛機制が働いたため田村氏はこのような主張を行った」と考える以外にこの矛盾を説明することは困難だと思われる。
<主 張>
⑵ヴィーガンは他人の食習慣に口出しをすべきでない。
<分 析>
食行動は人のアイデンティティに深くかかわっているため、食行動への批判はアイデンティティに対する攻撃とみなされる。そのため田村氏は、「誰かから食べることについて他人に教わりたくない」や「無視する自由」という食行動の自由論を盾に、この攻撃から自己のアイデンティティを防衛しようとしたのである。ではなぜこのような防衛をしなければならなかったのか。
まず、食行動の自由論という消極的な防衛方法しか取れなかったのは、「肉食は倫理的に問題がある」という今井氏の批判に対して、「倫理的に問題がない」という反論が困難であると感じていたからである。そして、「僕はありがたいことに、うちの両親が命をいただくときに、感謝の気持ちを込めて手を合わせて『いただきますと言っていただきなさい。』って言って、僕はそういう気持ちで命をいただいています。それを娘にも教えています。で、これは僕の田村家の食育の話であって、誰かから食べることについて他人に教わりたくないというのが僕の意見なんですね。」という発言は、「感謝して食べているので自分の肉食という食行動は倫理的である」という理屈であるが、「感謝して食べているので」という主観的な理由を自己が倫理的である根拠にするのは苦し紛れの言い訳にすぎない。なぜなら、このような言い訳で自分の立場を擁護すること自体、田村氏が自己の肉食という食行動に倫理的な問題を感じていることを証明しているからである。
ところで、牛や豚や鶏などの動物を食べている我々人間がこれらの動物たちに感謝すべきであるとするなら、動物たちがどのように育てられ、どのように殺されるのかを知る責任がないだろうか。その事実を知らずして感謝することができるだろうか。もし事実を知ることを拒否する権利を主張するなら、命のありがたさを感じることは当然できないので、殺される動物たちに本当の意味で感謝することも不可能である。ウクライナでロシアが行っている蛮行や太平洋戦争で日本軍が行った蛮行を知らずして、真の平和を訴えることが不可能であるのと同様、家畜産業の実態を知らずして家畜の命の大切さを訴えることも不可能なのである。
田村氏は、自分の娘に動物に対する感謝の気持ちを本当に教えたいと言うのなら、自らの手で殺して食べるという命の教育を自分の娘にする必要がある。肉食をする以上、どのようにして食肉が生産されるのかを知ることは、我々人間の権利であるだけでなく義務なのである。「知る義務」を拒否する田村氏の「感謝して食べる」という言葉は自己欺瞞以外のなにものでもない。
【田淵氏】
<主 張>
⑶ヴィーガンは他者を見下す姿勢を持っている。
<分 析>
討論その16で、実態を知らないから日本でヴィーガンに対して反感を抱く人が少なくないという今井氏の主張が事実であるということは否定できないように思われるが、実態を知らない日本人がその主張を肯定することは非常に困難である。なぜなら、「自分の子どもを持たない人」に向かって、「子どもを持てば親心が分かる。子どもを持たないあなたには親心は理解できない。」という主張をするのと同じで、
「自分の子どもを持たない」自分に非があると言われていると感じるのと同様、実態を知らない田淵氏が今井氏のこの主張を耳にすると、主張内容の是非ではなく、実態を知らない己の立場が否定されていると感じたため、「実態を知っている=正しい。実態を知らない=正しくない。」という攻撃(断罪)の図式の正当性を問うという方法で田淵氏は今井氏を批判したと考えられる。
では、なぜ田淵氏は実態を知らないという指摘を自己の立場の否定と感じたのか。まず、田淵氏が実態を知らないということ、そして、今井氏に向かって「断罪」という言葉を田淵氏が用いていることから、田淵氏が断罪される自分には罪がなく、むしろ断罪する今井氏の側に傲慢の罪があると批判しているように思われるが、実は田淵氏は自分の無知に引け目(劣等感)を感じているということが事実である。なぜなら、相手に優越することができない状況で己の劣等感を克服するには、相手を貶めるという手法を用いる以外にない訳で、まさにその手法は、相手に優越できないという状況を事実として認めていることに他ならないからである。
【佐々木氏】
<主 張>
⑷ヴィーガンは他者に自己の価値観を押し付ける。
<分 析>
「人間による肉食は動物の生命や幸福や自由の搾取であり、やめるべきである。」というテーマは、何を食べるべきかという価値観と関連するため、価値観の押し付けをする一種の宗教と捉えられる傾向があるが、そもそも宗教的主張自体が一定の価値観の表現であるがゆえに、その主張が価値観の押しつけと捉えられるとするなら、それはむしろ捉える側に問題がある。ではなぜ価値観の主張を押しつけと捉えるのであろうか。
一つには、食行動は人のアイデンティティーに深くかかわっているため、食の価値観は最も保守的な価値観、すなわち最も変えられない価値観であり、ヴィーガンはこの最も保守的な価値観に対して価値観の変更を求めるからだということも考えられるが、同調圧力がその社会の背景にある場合、主張する者が少数者であれば、その主張は多数者にとっては価値観の押し付けとして排除されるのである。戦時中、軍国主義は当たり前の考え方として受け入れられていた。それを批判する者は非国民として排除されるべきものとみなされた。しかし、戦後は民主主義が当たり前となり、軍国主義は排除された。
つまり、現在の日本社会ではヴィーガンは少数派であるがために多数派に否定される。ヴィーガンは多数派の和を乱すがゆえに排除されるべき悪であり、多数派の敵となるのである。参加者の内、ヴィーガンはたった一人で、残りの参加者は全員が非ヴィーガンであった。非ヴィーガンの主張を価値観の押し付けとみなす佐々木氏の発言は、正確には「不当にも少数派のヴィーガンは多数派の非ヴィーガンに自己の価値観を押し付けようとする」であり、多数派の非ヴィーガンが自分たちの価値観を乱すヴィーガンを排除すべき敵(=悪)とみなすことで成立した発言なのである。
【平石氏】
<主 張>
⑸ヴィーガンは非ヴィーガンの気持ちを尊重していない。
<分 析>
平石氏は、非ヴィーガンの感情に対する配慮を欠いているという理由でヴィーガンの主張方法を批判している。言うまでもなく平石氏は非ヴィーガンの立場に立って批判しているのだが、ヴィーガンは非ヴィーガンの立場より動物の立場に立つべきだと考えて主張しているので、非ヴィーガンの感情に配慮しないのは当然であり、平石氏の批判は事実を説明しているだけで批判にはなっていない。
では、なぜ平石氏はヴィーガンは非ヴィーガンの気持ちに配慮すべきだと考えるのか。それは虐げられている動物よりも虐げる人間の方が重要だと考えているからではないだろうか。もし虐げられているのが奴隷の人間で、虐げるのが主人の人間ならどうだろうか。主人に鞭打たれて生涯苦しむ自由のない奴隷の感情より、安価な奴隷の労働力を失って苦境に立つ主人の感情の方が重要と考えるだろうか。後者の方が重要だと考えるのは後者と同じ立場に立つ場合であり、公平な第三者の立場に立てば、前者の方が重要であると考えるのが普通である。したがって、平石氏が非ヴィーガンの立場に立つのは、人間は動物より重要だと無意識に考え、公平な第三者の立場に立つことができないからだと言える。
【市原氏】
<主 張>
⑹ヴィーガンの主張方法は非ヴィーガンから反感を買いがちであり効果的ではない。
<分 析>
市原氏は、「ヘイトを集める主張方法は効果的ではないのでピータは主張方法を見直すべきだ」と考えているのではなく、ヴィーガニズムを広めるのがピータの主張の目的ならば、ピータの今回の主張方法はピータの活動目的に反しており、矛盾しているのではないかということを指摘しているに過ぎない。しかし、この問題に関しては、すでに討論その3で今井氏が田村氏に「はい、だから無視したかったらしていただいても大丈夫なんですよ。私たちは響く人に、あの響かせるためにやっていて…」と答えているように、「響かない人」、すなわちピータの主張に反発を感じる人は無視してかまわないわけで、「響かない人」にまでヴィーガニズムを広めることがピータの活動目的ではないので、市原氏が指摘するような矛盾は起こらないのである。
ヴィーガニズムを広めることがピータの主張の目的だと市原氏が考えたのは、「正しい思想は多くの人々に受け入れられるべきだ」という考えが大前提になっているからではないだろうか。つまり、この考え方に従えば、「多くの人々に受け入れられないなら、ヴィーガニズムは誤った思想である」となるので、市原氏はピータは効果的な主張方法を考慮して多くの人々に受け入れられるように努力すべきだと考えるのである。しかし、この大前提は正しいと言えるのだろうか。
