こんにちは。

 

今回は「徒競走」というテーマで書いていきます。

 

先日、知り合いの学校関係者から、今の小学生の運動会では徒競走をしても順位を付けないという話を聞きました。数年前、ニュースでなんとなくそんな話題が上がっていたなとは思っていたものの、しばらく忘却の彼方であり、改めてこの話を聞いたとき、その異常さを覚えました。

この話を聞いたとき、背景にゆがんだ「平等主義」の匂いを感じましたが、せめて行き過ぎた平等主義を揶揄する作り話であってほしかったというのが個人的な感想です。

思うに、「徒競走で順位を付けない」という教育方針は、生徒自身の発案や先生たちから沸いたアイデアではなく、親からの圧力から生まれた負の産物だろうと予想されます。もっともそうした親は、かならずしも学校側を困らせてやろうという意思はなく、ただわが子がかわいいという一心で物申しているのだろうと考えられます。

「私のところの子、運動会のためにすごく頑張ったのに、今回は一位になれなかった」

「どうしてくれるの。負けて泣いてしまっている」

「足が速い子が目立って、うちの子みたいに速くない子が目立てないのはおかしい」

といった言葉が学校に押し寄せていたのではないか―現在進行で押し寄せているかも―という想像がつきますが、これに応じてしまったというのはいささか悲しいですし、むしろ教育としてよくない気がします。

学校の在り方については、いろいろな考え方や個々の取組に対する賛否両論がありますが、少なくとも事実としていえるのは、「学校は大勢が集まる場所」ということです。いわば社会の縮図とも言え、せっかくなら大勢いるからこそ達成される活動がなされるべきだと考えられます。どう達成されるかの形は、様々ですが、あえて理想を言うとすれば、大勢の中での自分の役割や得意分野、あるいは欠点を見つけ出し、それを向上ないし改善させていくことで、社会に出て生きていくための素養や考え方を身に付けるような形態で達成されていくべきなのではないかと思います。

なぜ大勢を強調するかというと、大きく2つの理由があります。一つは、大人になり社会進出すれば、大勢の中の自分として生きていかなければならないからです。争いが嫌、順位付けが嫌、優劣が嫌と言っても、不可避です。受験や就活でも誰かが受かり、誰かが落ちます。同期の誰かが昇進したからといって、自分も昇進できるとは限らない、そんなものだと思います。でも、そうした環境の中でもうまくやっていけるのは、幼いころからの模擬競争ともいえる学校社会を経験し、それが身に付いているからだと思います。この点、徒競走レベルのことで「優劣をつけるのがおかしい」という主張が声高になり、結果として順位は付けないとなると、その時は嫌な思いをしなくていいかもしれませんが、いざ人生を左右するような大きな順位付けを経験しなくてはならないとなったときにメンタルが保てないおそれがあります。負けるからこそ、次は頑張ろうとも思えますし、負けを経験するからこそ、勝った時の喜びも大きくなるのではないでしょうか。

もう一つは、そうした順位付けの経験は、一家庭ではなかなか達成されにくいからです。いくら大家族だといっても、兄弟の数には限界があります。また仲のいい友人を集めてもその人数には限界があります。偶然の成り行きでその場に集まった生徒らが、異なる価値観やバックグラウンドのもと接触することで、相対的に自分のどこが優れていて、どこが欠点として存在するのかが分かり、互いに教えあったり助け合ったりすることができるのが学校の長所です。これを全て横並びにしてしまえば、自分の得意苦手分野も見つけられませんし、達成・克服する気持ち、助け合う精神も身に付かなくなる気がします。

「平等」が叫ばれ、学校に求められる内容が高度化してきた昨今においては、教育方針にある程度のイノベーションを起こすことは重要なのかもしれませんが、「徒競走で順位を付けない」というようなやり方は、優劣があるという社会の現実から目を背けて、一時的に負担を軽減させているだけであり、重い病気に罹っているのに、その場しのぎの痛み止め薬だけでやりすごしているのと同じです。根本的な解決になっておらず、その副作用は必ず大きくなって返ってきてしまいます。

そもそも、徒競走の走者たる子どもたちはそうしたことを望んでいるのかということにも疑問があります。こうした謎方針は、子どもをゆがんで溺愛する親の方針が強く反映されているだけな気がします。子どもはもちろん子どもなわけですから、競争社会の経験はほとんどありません。だからこそ、徒競走に順位がないことに違和感を覚えようもないのかもしれませんが、結局のところ、大人になり現実を突きつけられるのは、子ども自身であるということを、そうした主張をする親は分かっているのでしょうか。わが子のためと思ってやっていることは、子どもへの恩恵ではなく、むしろ負担になり得るということを考えなくてはならないような気がします。

 

最後になりますが、2007年のユーキャン新語・流行語大賞第39位となった「モンスターペアレント」という言葉は、いつしか誰も気にかけることのない言葉になってきています。そのため、当時子どもだった私も今や学校とは何ら関係がなくなったということもあり、このワードに触れる機会も少なくなったことから、てっきり「モンスターペアレント」という存在自体が過去のものになっているとばかり思っていました。ところが、いざ調べてみると、モンスターは消滅するどころか、学校の制度をおかしな方向へ導き、しかも声がより大きくなって「巨大化」していることが分かりました。モンスターペアレントというワードにあまり触れなくなったのは、あまりにも多くの「モンスター」が世に蔓延し、もはやわざわざ言葉にするほどではなくなってきたからなのかもしれません。