坪沼日記〜僕が百姓を始めたわけ 1992年4月14日 | 小さき花 市民の放射能測定室 代表のブログ
1992年4月14日 曇時々雨
例年になく雨が多く畑を起こせない。雨が降っても入れる畑(無耕起の畑)にカブや葉物を播(は)種、上から落ち葉をかけ鶏ふんを振る。
僕の生まれた所は駅から2キロメートル。たこ揚げは国鉄アパート、コマ回しは毘沙(びしゃ)門さん。そんな畑とは無縁の所で育ちました。
そんな僕が初めて農業に触れたのは高校の時でした。無人駅から歩いて2時間もかかる学校は自然そのものの中にありました。自然、天然、そして労働を通して真理を学び独立していこう、というのが学校の方針で、農作業や農繁休暇、自治会の運営費を生み出すための植林作業などがありました。
僕はそんな中で、「こんなに包容力のある、どんな人とでもいろいろな形でかかわれる、そして常に創造しつづけられる農業の仕事っていいなあ。百姓やりたいなあ」と思うようになったのです。
大学在学中や卒業後はネパールでNGO(民間組織)の農業の手伝いをしたり、1年かけて西アフリカから北欧までを旅し、各国の農業を見て回りました。その時僕が見たものは、ドルや円を得るための、先進国が指導するプランテーションなどでした。ブラジルのコショウ、ガーナのカカオ、タイのキャッサバなどなど。
でも、その陰ではそれまでうまく循環していた自給体制を崩し、村の共同意識もバラバラにしてしまっていたのです。また作物は先進国に買いたたかれ、農村は飢え疲弊し、都市部にスラムの住人として人が集まるようになってしまいました。その上現在では採算が合えば野菜も魚も、大量の石油をたいて空輸し貴重なエネルギーを使って先進国に運ばれています。
アフリカから帰った僕は、この日本でどんなことができるかを考えました。すると、どうしても「自分のしりは自分でぬぐえる百姓」、つまり、自分の作った農産物を自分で配達出来る範囲内で食べてもらえる無駄のない農業、化学肥料や農薬を使わないリサイクルのできる農業、そして、自分で正しい値段のつけられる自立した農業、それしかないと思ったのです。もちろんそれ以上に好きな自然の中で常に創造できる楽しい仕事は農業以外にないと思ったからですが・・・・。
僕にとってはガーナで世話になったステファンも、ネパールの農場の子ムラリーも、タイの山岳民族のダイエも同じ地球村にいる隣組の友達なのです。それは僕にとって坪沼(仙台市太白区)の板橋という地区の隣組と同じくらいの意味をもっています。私の住む、ここ坪沼はまだまだムラの共同意識が残っており、みんなでムラを良くしていこう、みんなを思いやっていこうという思いがまだまだたくさんあります。
僕はこの坪沼のムラの1人ひとりに支えられているのと同じように、南米やアフリカ、アジア、その他大勢の友達に支えられているんです。コーヒーだって、チョコレートだって、ゴムだって、みんな友達の働きがあるからこそ手に入れられるのです。電気やガスが無くても生き生きと楽しく、美しく輝いている友達の姿を思う時、僕も出来るだけ他人に迷惑をかけずに、ささやかながら世界の友達を応援して、無駄のない百姓をおこなっていきたいと思うのでした。
いしもり・ひでひこさん
仙台市生まれ。小学6年から中学1年までペルーのリマの日本人学校に通う。基督教独立学園、東京農業大学卒業。仙台市太白区坪沼に自ら田や畑を開墾。有機農業を営む傍ら、「スピリット・オブ・プレイス仙台」など様々なイベントに参加。自然に根を下ろして生きる人々との交流を大切にしている。
1992年4月25日河北新報社掲載記事より 
