広島・長崎の原爆投下や終戦のメモリアルデーが続くこの時期に限らず、購読の朝日新聞では平時においても『語り継ぐ戦争』と題する特集の読者投書が掲載される。どういう間隔なのかは承知していないが、読者の声から戦争の悲惨さ、不条理を忘れてはならない、二度とあのような戦争を起こしてはならないという反戦キャンペーンである。投稿は激戦の生き残りの90代の方から親族の体験を伝聞した10代の若者にまで及んでいる。
そういう体験談を読むにつけ「私自身の戦争の思い出や如何に?」と自問することがある。そこで今回は一度それを整理してみたいと思い立った。
私は昭和19年8月の生まれ。終戦の1年前、東京の下町足立区に生まれ、勿論戦争の記憶など有りようがない。親からの伝聞のみであるが、父親は家では寡黙な人だったし母も多くは語らなかった。警察官だった父は志願して満州に出兵し、前線で背後から銃撃され縦貫創を負った。「熱っ!」と感じた後、気が付いたら野戦病院で手当てを受けていた。結局父が天命を全うして亡くなるまでに聞いた戦争談はこの「熱っ!」という言葉だけであった。米軍による本土攻撃が激しくなり、内地の治安が手薄になったため父は警察官として東京に戻されたそうだ。空襲警報が鳴ると父は仕事がら夜中でも飛び出して行った。こんな時こそ一家のあるじが家に居て欲しいのにと母は思ったそうだ。昭和20年3月10日の東京大空襲は私が生後7ケ月のことである。この時周辺は火の海に包まれたが、幸運にも我家と近接の数軒は焼けなかった。空襲に備えて造った我家の防空壕といったら狭い庭にスコップで掘った粗末なもので、警報がなると母は衣類にくるんだ私を放り込んで蓋をし、自分は家の中に居たという。前書したように父は飛び出していて家には居らず、もう腹が座ったらしい。ともかくも3人家族は無事に終戦を迎えた
父方母方の親族にも戦死者は一人も出なかった。叔父の一人が特攻に志願し、出撃して撃ち落とされて洋上でオーストラリア軍の捕虜になったが、戦後解放された。
というわけで私の周りは悲惨な戦争体験がない。終戦時に丁度満1歳の私は戦争どころか戦後しばらくの記憶もない。何歳の時だったか、母と近郊の農家に行き、土間に転がっているサツマイモと母が持っている風呂敷包みを交換したことを覚えている。後になって分かったことだがそれが物々交換の買い出しで、風呂敷の中身は母の着物であった。それから少ししてと思うが、食券を持って配給のパンを受け取りに行ったことがある。そのいずれも1回ずつしか記憶がない。食糧事情が悪いために群馬県の父の実家にしばらく”疎開”したことがあるのだが、栄養をつけるため祖母がヤギの乳を飲ませようと呼ぶ声に逃げ回った思い出がある。臭いが嫌で仕方なかったのだ。
小学校に上がってから、我家の近くの同級生宅で焼夷弾の残骸と焼夷弾で焼けたコメを見せてもらったことがある。
学生時代や会社での同年配からは私よりはるかに多くの記憶や思い出話を聞いたことがあるが、私にはその程度のものしかなく、”戦中っ子”であるにしては話題に実に乏しいと思う。尤もこの類の話題は無いに越したことはないとも思う次第である。