それは妙な絵だった。
これまでレプリカを描いたことはそうない。
だが、その絵に関してはーーまるで自分が描いたのではないかと思うくらい、全てが手に取るように解った。
配色。色の厚み。オイルの分量。乾かす時間。
予めセットされた仕掛け人形のようにーーそれは一度走り出すと、突き動かされるようにぐんぐんと白い空間の上を滑る。
己の意思ではないように。
時間は飛ぶように過ぎ、夕焼けが染める度に本物へと戻っていった。
そう。
戻っていく。
これは初めから、その絵だったのだ。
知らない女の肖像画。
7日ほどかかっただろうか。
本当は3日で終わらせたかったが、乾かすのに思いの外時間がかかった。
それ以外は全て予定通りだ。
否ーーひとつだけ、予定外のことが起こった。
彼女が、絵を描く場に同席したいと言い出したのた。
珍しい、と思った。
あまり、自分の意思を表に出さないように見えたから。
断る理由もなく、結局、彼女は描くほとんどの時間を自分と共にいた。
気を遣ったのか、筆を持つ間口を挟むことはほとんどなかったが、ただ傍にいる彼女を、なぜか気にならなかった。
それどころか、居ることを忘れて夢中になり、ふとその存在に気づいて少し背を正す、ということすらあった。
ーー何者なのだろう。
出会った時からの問い。聞けずにいる。
アンジェリーナ。
ロンドン住まい。
既婚。
女。
聞きたいことがある。
だけど、それを口に出すのは憚られた。
言葉にすると、恐ろしく安っぽいーー下品な、どこかの空飛びが軽薄に(本人はそれを親しげに、と勘違いしているかもしれないが)誘い出すようなニュアンスにさえなりかねない危険性を孕んでいる。
しかし、自分の問いは恐らく肩透かしに終わるのだ。
なぜならーーもし自分の疑問が当たっていれば、彼女は初めからあのような出会い方をしないからだ。
覚えているはすだ。
自分のことを。
(……くだらん)
珍しく考えに嵌まり、ふと我に気付く。
彼女のはずがないのだ。
単なる、自分の中の思い違いだ。
それを、妙な期待などしてはいい嗤い者だ。
(もう、その生き方は止めたのだ)
強く、言い聞かせるように。
自らにそう呟く。
(俺はただーー)
何がしたい?
自らにそう問いかける。
彼女に会ってどうするのだ。
話の続きをするのか。でも何の?
そもそも、接点など何もない。
会ったところでーー通りいっぺんの挨拶を、二言、三言交わすだけで終わりだ。
そしてまた、すれ違う。
すれ違ってーー離れていく。
いずれにしても、これ以上を望むのは無理なのだ。
彼女は彼女ではない。
ただ、絵を描く俺の傍らに佇んでいる。
それだけのことだ。
彼女は、空気に溶けて、そして戻ってくる。
不思議と空気は、ほんの少しだけやわらいだ。
俺はそこに飛び込む。
飛び込んで、世界を作り、戻ってくる。
呼吸のように。
海を泳ぐ魚のように、いつまでも泳いでいたかった。
自分でも何が起きているのかわからない。
ただ、今、彼女はそこにいる。

今はそれでいい。
その手さばきは鮮やかだった。
みるみる間に、キャンバスが色で埋められていき、息を吹き返すかのようだった。
特に驚いたのは、彼の色の扱い方だった。
その色が、その部分に来てどうなるのだろうー一一見、そう思うような突飛な色を乗せる。
しかしそれが後になって、見事な陰影を作り上げるのだ。
ーーこの肖像画は、元々彼が描いたんじゃないかしら?
そんな疑問さえ浮かぶ。
彼は間違いなくプロだった。
否ーー芸術家と言っていい。
断言できる。
それは明らかに、趣味レベルでやっている者の持つ技ではなかった。
凌駕している。
想像を。
(ーーすごい)
もはや吸い込まれるようにその絵の過程に見入る。
本当は、プロの画家として活躍していたのではないだろうか?
そんな問いが浮かぶ。
しかし、その疑問は喉まで出かかって止まった。
集中している彼の気を逸らしたくない。
ただでさえ、半ば強引に同席しているのだ。
不愉快に思われたくない。
何より、本当に、それ以上にーー。
逃したくなかった。
一秒たりとも。
絵が、出来ていくさまを。
神の技だ。
言い過ぎではない。
それはもはや、嫉妬すら飛び越えてーー完全に自分の心を魅了していた。
天才とはこういうことを言うのだ。
そう、心のなかで呟く。

* * *

瞬く間に時間が過ぎた。
気づけば、外は夕日の赤に染まり、部屋のなかは少しだけひんやりしている。
見入っていた筆がピタリ、と止まると、レイモンドがおもむろに発声した。
「……まずはここまでだ。いったん休憩しよう」
「ーーええ」
言いながら、アンジェリーナは内心ホッとするのを感じた。
気づかぬ間に、自分も少し疲れていたらしい。
「外で食べよう。それから、帰りに飲み物も買いたい」
「そうね」
頷いて、アンジェリーナは立ち上がる。
簡単に道具を片付けると、二人は部屋を出た。
近くのレストランに入り、アンジェリーナは白身魚のポワレを、レイモンドは牛のステーキをメインにしたコースをオーダーする。
「……びっくりしたわ。どんどん復元されていって。もしかして、昔画家だったりしたの?」
アンジェリーナは少し興奮したように尋ねる。
「ーーいや。趣味でやってるだけだ。誰かに売ったり見せたりはしない」
「そうなの? すごくもったいないわ。すごい腕前なのに」
「人の真似をしただけだ」
「真似ができるからすごいのよ」
本気で己の才能に気づいていないだけなのかあるいは単なる謙遜なのか、いまいちアンジェリーナにはわからなかった。が、すぐにそれは、彼の能力ゆえの本心かもしれない、と思った。
才能がある者ほど、上がわかる。
そしてそれゆえに、自分はまだまだだと思ってしまうのだ。
「……ね、誰かに習ったの? それとも独学?」
「習ってはいない」
ぼそりとレイモンドは答える。
ならば尚更、彼自身に才能があるということになる。
自分ひとりで、ここまでの技術を見出したならば。
「絵は、元々好きだったの?」
何だか今日はたくさん聞いてしまうな、と思いながらも、アンジェリーナは口が止められなかった。
それだけ、彼の絵に感銘を受けたのだ。
「……そうだな。きらいではなかった」
「じゃあ、自然に? 何となく絵を描こうと思い始めたの? それとも、何かきっかけがあったの?」
ふと、レイモンドが黙った。
わずかに瞳を伏せ、テーブルの上を見つめている。
(聞いてはいけないことだったかしら)
うっすらとした不安が沸き上がり、アンジェリーナはじっと返答を待つ。
「……特に、理由はない。何となくだ」
レイモンドの返答に、アンジェリーナは安堵する。
(地雷を踏んだわけじゃなかった)
「そう……」
相づちを打ったところで、スープが運ばれてきた。
コーンポタージュの甘い香りが漂ってくる。
「……しばらくぶりだった」
アンジェリーナがスープに口をつけはじめた時、おもむろにレイモンドの声が聞こえてくる。
目をやると、彼もスープに手を付け始めていた。
一口目をゆっくり飲んだあと、彼は再びこちらを見る。
「一度、描けなくなったことがあった」
「ーー」
アンジェリーナは静かにレイモンドと目を合わせる。
「でも、ある人に描けと言われてーーそれで、また描き始めた」
レイモンドの眼差しは、静けさを湛えていた。
「ーーそうなの……」
突然の話に少し驚きながらも、あくまでそれを表面には出さずにアンジェリーナは頷く。
珍しい。
彼が、自分の話をしている。
それは少なからず嬉しいことだった。
心を開いてくれている証だから。
僅かだとしても。
(その人はーー)
ふと、そんな思いが心によぎる。
(どんな人なのだろう)
彼を再び描くようにまでした人だ。
きっと、ものすごく芯のある人に違いない。
そして同時に、彼のことを深くーー。
(どんな人だったのだろう)
問いだけが宙にぶらりと浮かぶ。
(恋人……だったのかしら)
聞く勇気はなかった。
そして、彼もそれ以上口を開かなかった。
きっと、触れられたくないことなのだーーそう察し、アンジェリーナは再びスプーンに意識を戻す。
スープは甘く体に沁みた。
以前にもーー

こうして、同じように描いていた。




しかし、

目の前の人間は別人だ。




それとも。




その記憶だけが抜け落ちた、同一人物か。
結局、一番最初に入ったロテル・ラ・メールというホテルに空室があり、シングルを隣同士で2部屋取った。
繁忙期でないのが救いだったかもしれない。
エレベーターが故障中とのことで、階段で3階まで登る。
部屋の前まで着くと、レイモンドがおもむろにこちらに向かって言った。
「何かあったら来い。俺はこれからすぐに取りかかる。勝手に外出はするな」
「……わかったわ」
頷いて部屋に入る。
目の前に海が見える、見晴らしのいい一室だった。
レイモンドの部屋からも、同じ景色が見えるだろう。
尤も、彼はこれからレプリカの製作に取りかかり、それどころではないだろうが。
(いや)
すぐに新たな考えが浮かび、アンジェリーナは先の考えを打ち消す。
(外の景色を見てはしゃいだりしないーーわよね)
レプリカの製作がなかったとしても、彼が外の景色に一喜一憂するようなことはまずないだろう。
言い過ぎかもしれないがーー窓の外が心踊るようなビーチだろうが荒れ果てた原っぱだろうが、それは彼の心に何一つ違いをもたらさないような気がした。
(よくわからない人……)
喜怒哀楽の、怒以外の要素が全てごっそりと抜け落ちているような無機質感。
今まで出会った、どんな人にも似ていない。
(落ち着かないわ)
ーー何を考えているのかわからなければ。
(ま、わかったらわかったでそれもめんどくさいんだけど)
矛盾は、しかし自分の中で折り合いはついていた。
ベッドに腰を下ろし、そのまま横になる。
ふー、と、大きく息を吐いた。
「つかれた……」
何とはなしに呟く。
この先しばらく、ここでこうして時間を潰すしかないらしい。
当然ながら、この状況下でひとりで外出する勇気はない。
慣れない土地というのはもちろんそうだけれど、それ以上に何が起こるかわからない、先の見えない不気味さが潜んでいた。
ーー怖い。
しばらく忘れていた感覚だ。
つい最近、生死の瀬戸際に立たされていたばかりなのに。
容易に忘れてしまう。
すがった神のことなど。
「……」
しばらく目をつむっていたアンジェリーナは、むくり、と起き上がる。
そしてそのまま部屋を出ると、勢いでコンコン、とレイモンドの部屋をノックした。
「ーーどうした」
開けられた部屋から、わずかにペインティングオイルの匂いが漂ってくる。
この短時間に、もうそこまで準備が出来ていることにアンジェリーナは軽く驚いた。
(手慣れている)
とっさにそう結論付ける。
彼の先の台詞は謙遜だったのだ。
「ーーあの」
アンジェリーナは最初わずかにためらいつつも、すぐ意を決したようにレイモンドを見て言った。
「私も……見ていいかしら?」
すると珍しく、彼は少しだけ驚いたようにわずかに目を見張る。
「どういう風に絵を描くのか、見てみたいの」
言い切ってからすぐ、不安が沸き上がる。
(邪魔だーーって言われるかしら)
それはこれまでの(主にチャールズとの)やり取りを見ていれば一目瞭然だった。
彼は人の気持ちを慮って遠慮したり自分の意思を曲げたりするようなタイプでは決してない。
ましてや、なるべく早くレプリカを作成しなくてはいけないとなるとーー他人を招き入れる選択肢など、もはや彼には存在していないように見えた。
ーー申し訳程度に柔らかく「集中できん」とか言われるだろうか。
そう思ったが、もう起こしてしまったことは仕方がなかった。
あとには引けない。
ダメならダメで、部屋でゆっくりしていればいいのだ。
レイモンドは、じっとこちらを見ている。
その表情は、やはり、何を考えているのか分からなかった。
否ーー見ようによっては、突然厄介な申し出をしてきた隣人を疎ましく睨んでいるようにも感じた。
(どうやって断ろうか考えているのかしら)
「あのっ……もし邪魔にならなければ、でいいけどっ……」
その場の空気に耐えきれずついにアンジェリーナが譲歩する。
「ーーいや」
しかしレイモンドの口から出たのは意外な答えだった。
(ーーえ?)
アンジェリーナが思わず言葉を失ったままレイモンドを見ると、彼はその無表情のまま続けた。
「構わん。ただし、オイル臭くなるぞ」
「ーーだ、大丈夫……」
内心ホッとして、アンジェリーナは頷く。
招き入れられた室内は、既にイーゼルに白いキャンバスが立てられていた。
そして、それと平行に並ぶように、出窓の部分ーー先程アンジェリーナが海の見える景色を見下ろしていたのと同じ場所ーーに、男からもらった肖像画を立て掛けている。
アンジェリーナはベッドの端に腰かけた。
少し斜め後ろからレイモンドと絵が見えるような位置だ。
レイモンドは、部屋にあった丸い木枠の椅子に座ると、かがんで床に置いてあった木のパレットと絵の具を手にし、ぐにゅぐにゅと中身をその上に乗せていく。
筆を手に取り、別容器に少量移したペインティングオイルにその毛先を少しだけつけると、パレットの上の絵の具を掬い上げる。
それはまるで、はじめから適切な量を知っているかのように、ためらいなく、息をするような自然さだった。
アンジェリーナは一瞬息をするのも忘れて、その仕草に見入る。
(ーーよかった)
頭の隅でそんな考えが沸き起こった。
興味がある、というのはもちろん本当だった。どんな風にレプリカが作られていくのか。そして、彼が実際、どの程度の腕の持ち主なのか。
けれど、もしこれが普通の状況であれば、到底同席したいなどと申し出ることはなかっただろう。
彼に怪訝な顔をされるかもしれないと思うだけで、そんな些末な考えは吹き飛ぶ。
でもーー。
(勢いとはいえ……勇気を出せてよかった)
今この空間に、二人でいることに安堵する自分を感じながら、アンジェリーナはつくづくそう思った。
怖かったのだ。
あの部屋に、ひとりでいることが。
その怖さが、アンジェリーナの突発的な行動を導いた。
だからーーどんな気まぐれかはわからないけれど、レイモンドが自分を招き入れてくれたことはとてもありがたかった。
そして密かに、ばれなければよいと思った。
レプリカへの興味で覆い隠した、真の目的を。
何かの冗談かと思った。
冗談を、急に、何らかの理由で彼が体当たりでこなしているのかと思った。
だとしたらそれなりに面白い。
けれど。
アンジェリーナは即座に頭の中の推理を却下する。
この状況下で、この人物が、最も取らないであろう行動だ。
ならば。
「……本当に?」
「ああ」
レイモンドは何のためらいもなく首肯する。
そして、すぐにまた、絵の具の束に向かって真剣に目を走らせ始めた。
(ちょっ……ちょっと待って)
この時初めて、隣にチャールズの解説が欲しい、と思った。
(絵が描けるなんて聞いてないわ)
誰からも。
(しかも、そっくりのレプリカを作るだなんて)
彼にーーそんなことが可能なのだろうか。
(たったの2、3日でーーできるっていうの?)
もはや神業だ。
てっきり、誰かに頼むかと思ったのに。
マルセイユでの『宛て』というのは、他の誰でもない、彼自身だったのだ。
アンジェリーナがまだ状況を呑み込みきれず頭の中で必死に整理をつけようとしている最中にも、彼は既に手に幾つかの絵の具を持ち、吟味を続けていた。
結局、同じ大きさのキャンバスをはじめとする絵の具やら筆やらの一式を揃え、二人は店を出た。
「知らなかったわ……絵を描けるなんて」
店を出てほどなく、大荷物を抱えたレイモンドに向かってアンジェリーナが思わず口にする。
「昔にな。少し手を出したことがあるだけだ」
「そう……」
彼の言葉が単なる謙遜なのか、しかしもし事実なら模写など買っては出ないだろうーーそれなりの腕前なのかもしれない。
「で、絵はどこで? 何か目ぼしい場所とかーー」
言いながらふとアンジェリーナは先程の会話を思い出し、問いの方向性を変える。
「ーーもしかして、これから昔住んでいた家に行くとか?」
「ーー」
(あ)
アンジェリーナは見逃さなかった。一瞬の、表情の変化。
それは、どちらかと言えばポジティブな反応とは言いがたかった。
尤も、この人物が普通の人間がするようなポジティブな反応ーー喜びとか嬉しさとかーーをするのかと言えば大きく疑問だが。
「ーーいや」
彼は短くそう言うとかぶりを振る。
その顔はまた元の無表情に戻っていた。
「もうそこには何もない」
まっすぐ前を見ながらそう続ける。
「それに……ここからは遠い。いずれにしてもここに滞在した方がいい」
その表情は淡々としており、何を考えているのかはわからない。
『もうそこには何もない』
察するに、住んでいた家は老朽化か何かで取り壊されたのだ。
確かに、それでは行きようがない。
が、もしかしたらーーさっきの一瞬の表情の曇りから見るとーー彼なりに郷愁のようなものを感じているのかもしれない。
完全な推測だが、そんな考えがよぎった。
「そう……」
アンジェリーナは気を使ってそう返したが、当のレイモンドはもはや気にしているのかいないのかもわからないような平然さで歩き続ける。
「もう少し海側の方にホテル街がある。そこに数日滞在する」
「ーーわかったわ」
今度は、アンジェリーナが平然を装う番だったーー当然、彼の性格のことだから、何も深い意味はないことなどわかってはいるがーーだからこそ、自分だけが勝手に意識してしまったことなど隠してしまいたかった。
軽く咳払いをして、少し遅れぎみになった歩幅を足早に縮めるように彼の横を歩く。