さらば羊蹄丸 | 林道急行 revival

林道急行 revival

以前公開していた林道専門ホームページ「林道急行」。
すでに林道旅からは引退しましたが、続編として
このブログでいろいろと紹介して行きたいと思います。

このブログ、タイトルの通り林道趣味だった頃の記録などを残す場ですが、
ジャンルについては特に限定していませんので、
その他の記事についても時々取り上げていきます。
子供の頃乗り物好きだった私は、電車とかバスとかの思い出も多い。
そういうものもご紹介していけたらと思います。
今回は船の話です。

[思い出の友と再会する]

友と言っても、学生時代の友人ではない。
昔の女友達でもない。
…まあ、ある意味若い頃に惚れていた相手ではあるのだが…。

もう四半世紀前のことです。
青森と北海道との間にある津軽海峡に、船が走っていました。
「青函連絡船」
青函トンネルの開通と同時に役目を終え、
今では歌謡曲や小説などにわずかに名残を残すだけ、
もう思い出の存在となってしまいました。
廃止後多くの船が保存されたのですが、その数も少しずつ減って、
いつの間にか3隻のみになっていました。

「羊蹄丸」。
津軽丸型第6番船。
1965年7月20日竣工 日立造船桜島工場建造
総トン数:5,375.93トン 全長:132m 前幅:17.90m
機関:三井B&W 出力:12,800ps(1,600ps×8基)
巡航速力:18.2ノット 試運転最高速力:21.16ノット
旅客定員:1,286名 積貨量:48両(ワム型換算) 自動車搭載数:12台

津軽丸型は、あの有名な海難事故「洞爺丸事故」の痛手を受けた国鉄が、
万全の対策を盛り込んで設計した、画期的な新造船。
当時の船舶技術の常識を覆す、最新技術をふんだんに取り入れた超近代化船。
船体も機関も補助機器も、操船装置もサービス設備も、過去に例がない最新のもの。
以降に建造されたフェリーなどに大きな影響を及ぼしたといわれています。





羊蹄丸は1988年の終航後、イタリアの国際博覧会で日本パビリオンとして使われた後、
帰国してからは東京お台場の船の科学館で、主要展示品のひとつとして親しまれてきました。
一番しっかりした母体が運営する博物館での保存ということで、
残る3隻の中でもっとも安定した保存が続くと思っていたのですが…
予想外の運命を迎えることになってしまいました。

船の科学館がリニューアルされることとなり(実質は一部廃止と縮小の目的)、
羊蹄丸は展示終了し手放されることになったのです。
無償譲渡されることが決まり、保存の道を模索したのですが、叶わず。
今まで命を繋いできた青函連絡船の末裔は、ついに解体されることになってしまいました。

「解体反対」「保存活動を」などの声はあちこちから上がりましたが、
それを言うのは簡単でも、実際に実行するのは大変なことです。
掲示板でこのような書き込みはたくさんあっても、
実際腰を上げて保存活動や募金活動をする者は皆無。
この辺、日本人の無責任さや無関心さを象徴している気がします。「人任せ主義」ですね。
年間8000万円ほどの維持費がかかるそうですが、これは大変な額だと思います。
ただ、、1万人の会員を募って、年会費8000円とすれば、不可能ではないということです。
しかし、現代日本には「絶対保存して欲しい」と発言する口だけ信者はいても、
実際の保存活動を計画したり、本当の意味で賛同できる人々はごくわずかなのが実情。
残念ながら、そんなものなのです。
いくら年配者が昔の思い出だとか言っても、アクションを起こすまでの思い入れはない。
青函連絡船に乗った記憶はあっても、この羊蹄丸だったかどうかの記憶まではないはずなのだ。
そもそも、連絡船を経験した世代がどんどんいなくなって、思い出の中での存在すら減っていく。
今の若い人はすでに世代が違うから、この船に乗ったこともないし、特別な感情もない。
ミーハーな人が見ても、単なるタイタニックと同じ「フネ」にしか映らない。
横浜港の氷川丸のように、商利用ベースの運営をすれば、なんとかなったかもしれない。
でも、今いきなりどこかの港にこの船がきても、もうその土地に根付くことは難しい気がします。
悲しいけど、潮時なのかもしれません。

結局、長い年月を大切にされてきた羊蹄丸は、スクラップの運命になりました。
まあ、形あるものはいつかは滅びるのです。
昔のものに思いを馳せて、それを大切に残すことはもちろん大事なことですが、
そのすべてを残していたら、いくら予算があっても足りないし、建設的ではありません。
そもそも、未来の世の中が遺産で溢れてしまうじゃないですか。
ひねくれた見方ですが、その形を見て偲ぶより、物質として未来に貢献するほうが
正しい弔いの方法なのかとも考えるわけです。
「死して生きる」。我々の身体だって、太古の時代の原始的生物を組成していた
炭素物質を再利用して成り立っているはずなのだから。
引取り先が見つからないこの船には、これが定められた運命だったということです。


[25年振りの対面]

東京お台場は、私の住む横浜からも遠くはない。
事実、お台場界隈は月に数回は通っている。
でも、観光だとかレジャー目的でこの地を訪れるはずはなく、
結局いつも素通りとなるのが常である。

羊蹄丸は安住の地を得て、永遠に船の科学館にい続けるものと信じていた。
いつでも会いに行けるから、いつか行けばいいと思った。
あれから25年の時が流れたが、今も変わらぬ愛着があるのに一度も行けなかった。
結局、再会のチャンスを作ることができなかった。
現役の頃あれだけお世話になったのに、今こんな近くにいたのに、申し訳ないことをした。

今回西日本を旅することになり、どうしても無視できなくなった。
じつは6月まで、四国で最終展示が行われていたのだが、
仕事の都合などで訪れることができずに終わってしまった。
いくら自分の人生にとって大切だと騒いでも、職場は非情なのである。
もう触れることはできないが、せめて最後の姿だけでも拝んでおきたい。
二度とないチャンスを生かすため、無理して旅程に組み込んだのだった。

香川県多度津町。
青函連絡船とまったく無縁なこの町が、羊蹄丸の最後の地となる。
かつて香川にも国鉄の連絡船があった。
岡山県宇野と高松を結んでいた「宇高連絡船」。
でも、瀬戸内海の穏やかな海を行く宇高連絡船は距離も短く、そもそも客層も空気もまるで違う。
青函連絡船とは全く違う航路で、あの迫力ある航海とは似つかぬ航路であった。
自分たちが別のモノと見ているよに、香川の人も親しみのある連絡船とは一致しない。
連絡船所縁の香川でも、羊蹄丸を特別な船として見る人はほとんどいないのだ。
誰にも気付かれることもなく、ただの解体船としてひっそりと消え行くだけなのだった。

懐かしい姿は、まだあった。
愛媛県新居浜市で一般公開を終え、この地に回航されてきて約10日。
幸い親しみのあるスタイルは、大きく失われることなく残っていた。
25年振りに間近に見た、羊蹄丸の船体である。



瀬戸内海の風光明媚な景色の中、佇む羊蹄丸。
厳しい津軽海峡の荒波を受けながら働いてきた船にとって、
最後の地としては穏やかなこの海がふさわしい気もするのだが、
なんとなく不似合いな光景にも映る。やっぱり羊蹄丸は函館の港が似合うのか。



この角度から見ると、今にも動き出しそうだ。
青函連絡船の耐用年数は、竣工当時は18年と定められていた。
廃止間際の航路ということで代替船が新造できず、
やむなく従来船に延命工事を行うことで乗り切ることとなり、
結局羊蹄丸は予定より長い23年もの時間を現役で通した。
引退から早25年、すでに47歳。現役時間以上の保存時間を経て、
本来の生涯より2.5倍もの長寿だったことになる。



シンボルのファンネル(煙突)。
知らない人が見たら現役そのままと思うだろうが、じつはすでに解体が始まっている。
右側の構造物の上、ここにはマスト(兼後部煙突)があったのだ。



船尾部分。ここも解体が進む。
青函連絡船の特徴である車両甲板、その船尾扉はすでに撤去済み。
かつて鉄道連絡船として現役だった頃は、貨車や客車をそのまま搭載できたのだ。
関連する構造物もすでに失われた。痛々しい姿である。



少し遠方から望遠で。
歴代の青函連絡船で一番美しいといわれたスタイルを一望できる。
近年の客船というとカーフェリーだが、車両を多く積むため背が高く、客室が上部に偏る。
鉄道連絡船の羊蹄丸は低層フロアから客室で、背も低い。
昔ながらの客船らしさをよく残したスタイルが、今では懐かしく映る。





接岸している岸壁沿いに移動した。
「宮地サルベージ」という会社に係留されているので、敷地外からの撮影となる。
防波堤によじ登って、合法な範囲でできるだけ近づき、カメラを向ける。





400万キロ以上、36000回近くの航海に耐えてきた船首。
津軽海峡の荒波は大変厳しいもので、僚船は大波を受け船首部分が変形したこともあるという。
現代の船舶で主流になっているバルパスバウ(球状船首)は、
この時代まだ客船クラスに普及しておらず、近代船の津軽丸型でも採用されなかった。





船橋。いわゆるブリッジ(操舵室)。
24時間休むことなく走り続け、昼夜とわず乗員たちが常に前方を注視した。
遠隔制御や自動制御が多用された近代的な装備のおかげで操船は容易になったが、
安全は人の力があって初めて成り立つものである。人々が安全な航海を作り出した。
おかげで津軽丸型は大きな事故を起こすことなく、全船が役目を全うして退役している。





前部マスト。
今も旗がはためいているが、これは現役時使われた信号旗ではなく、
残念ながら安っぽい万国旗。よって意味はなさない。
レーダーアンテナは1基が撤去されているが、他はほぼそのままか。
エアーホン(汽笛)も取り外されずに、そのまま解体されるらしい。
柔らかい音色で、切ないながらもどこか優しいあの音色を奏でたエアーホン。
連絡船開発陣の中にアマチュア音楽家がいて、彼の意思で和音が採用されたという。
「ド」と「ミ」を同時に奏でる「長三音」は、連絡船に与えられた隠れた贅沢装備。
近年のフェリーなどは単音の味気ないものも多いが、
青函連絡船は旅情を感じる実にいい音色だった。

 ♪ 青函連絡船の汽笛(八甲田丸)
 ※現在も保存されている2隻(函館港:摩周丸/青森港:八甲田丸)では、
   エアーホンが復元され、毎日決まった時間に吹鳴されています。





上部甲板。最上部の遊歩甲板にはグリーン船室など上級席が、
その下には2等椅子席・座席(桟敷席…広間、いわゆる「雑魚寝」)がある。
グリーン席は自由席と指定席があり、貸切利用可能な個室寝台まであった。
一般の客はもっぱら広間に横になるのを好み、これが連絡船の風景として定着していた。
今にも乗船客が出港を惜しんで船内から出てきそうな錯覚を覚える。
自分もそうやって何度青森や函館の街を眺めただろう。



解体間際でも船名はそのまま。最後まで羊蹄丸として、この船は消えていく。
船籍は東京。かつて国鉄の時代、連絡船の船籍地はずっと東京であった。
もちろん母港は函館港なのだが、国鉄の拠点がある東京に籍を置いていたのである。
分割民営化でJR北海道の所属となり、短い間だが船籍が函館とされた。
羊蹄丸はその後お台場の船の科学館暮らしとなり、その際東京に書き戻されている。
もちろん自力航行ができないので船舶ではなく、このとき船籍はすでになかったのだが…。





シンボルのファンネルマーク。
分割民営化の時点でJRマークに変わっていたが、保存に際して国鉄のJNRマークに復元。
船で一番のアピールポイントだが、さすがに巨大なので引取り手は見つからなかったか。



イルカのデザインで親しまれたシンボルマークも、すでに撤去。
それぞれの船に、船名にふさわしいマークがデザインされていた。
記念撮影などにお世話になった人も多いはず。
船体も一部バーナーで焼ききられた。もうすぐこの船は命尽きるのである。





優雅な船体を眺める。
「海峡の女王」と呼ばれ親しまれ、「海の新幹線」と言われた超近代化船も、
47年の時を経て元の鉄へと還ろうとしている。
初めて青函連絡船を見たとき、大型の客船を知らなかった自分は、
船体の大きさに驚いた記憶がある。確かにこのような船、滅多に触れる機会はなかった。
その後何度も200メートルクラスのフェリーに乗ったし、いろんな船も見てきた。
改めて見ると、青函連絡船ってこの程度の大きさだったかなと感じてしまう。
全長132メートル、外洋を航行する大型フェリーと比べればそれほど大きくないのである。
それでもこの船は、フェリーとは比較にならないほど、いろんなものをたくさん積んで走っていた。
それは人々の心の中に今なお強く残っている、何かなんだと思う。



「ゴミを捨てないでください」。
最近は自分以外に無関心な、自分勝手な人間が増えていて、嘆かわしい限り。
ゴミはきちんと相応の方法で始末するべきである。
しかし、この船は相応な方法で処分されることになったのだろうか。
今でも納得する答えが出せないのは、単なる愛着なのか、未練なのか。
ついこの前まで歴史的保存物だったこの船が、今やすでに大きな廃棄物なのだ。



船の科学館を離れるとき、盛大なセレモニーで見送られた。
第三の人生が始まるはずだった。しかし…そのあとに訪れたのは、過酷な現実である。
新たな船出? これがその理想郷なのか。ここは単なる墓場ではないか。



船の科学館がこの船を手放すことに決めたとき、その後の処遇を検討した。
結論は無償譲渡になったわけだが、譲渡先の条件として、いくつかの事項が決められた。
ひとつは、一般向けに保存展示を行うこと。
もうひとつは、海外に売船せず、日本で目的を全うさせること。
この条件を満たしたものだけが、羊蹄丸の受け入れ先候補として残るのである。
言うまでもなく、今後末永くこの船を維持できる嫁ぎ先を見つける目的…のはずだった。
数十の団体や企業から申し出があり、その中で一つの団体に譲渡先が決定した。
その結果が、香川県で解体…。
確かに、愛媛県内で2ヶ月程の一般公開はした。
船舶解体における資源リサイクルの技術研究という目的もある。
しかし…この船のために一番幸せな譲渡先を探すという意味からは、
全く違うところにたどり着いてしまったのが現実である。
思うに、理想とした条件は建前であって、結局譲渡元と譲渡先双方に好都合であり、
一番丸く収まる方法で決めてしまうことにした…というのが本当のところだと思う。
処分してしまうことを決めたらもうどうでもいいのであって、
批判されないように相応の方法を見つけて、さっさと案件を始末したかったのだろう。
早い話、めんどくさかったのか。特にこの船に思い入れはなかったのではないのか。
結局、2ヶ月の保存展示も、船体解体技術の研究も、
それはあくまでスクラップにするための過程や理由を故意に作っただけだと思えてしまう。
単に鉄くずにして売るための口実…そうではないのだろうか。

船舶の解体リサイクル研究なんて、専門業者のこの会社は年中業務としてやってるはずだから、
いまさらこの船を解体することで得られるノウハウなんてないのではないか。
そもそもスクラップになったら、発生した鉄屑は中国に売却されて終わりではないのか。
建前と現実の矛盾は、誰でも考えることだ。
海外に売らず日本で利用するという条件は、一体どこに行ったのだろう。
これがこの船にとって幸せな最後なのか。
所有者はこの船の行く末を本当に真剣に考えての結果だったのか。
譲渡先が容易に見つからないことはわかっているが、
あまりに当初の理想とはかけ離れた結果で、やっぱり納得できないのである。

羊蹄丸の一部が、処分されずに残るのだという話を聞いた。
船の科学館時代に船内展示されていた、青森の様子を再現したジオラマ。
連絡船最盛期の青森駅や街の様子を表現した、リアルなセットだという。
「あの懐かしい展示が残せてよかった」
「楽しかったのでまた見たかったから、嬉しい」
「よくぞ羊蹄丸を残してくれました」
…それは確かにごもっともな感想で、気持ちもよくわかる。
でも、はたしてそれは本当に羊蹄丸の遺産なのだろうか。

青森のジオラマ部分は、船の科学館展示に際して作られた、あくまで作り物である。
要するに、1990年代以降の製作で、それ自体には連絡船の時代のモノとしての価値はない。
羊蹄丸が津軽海峡を走っていたとき、そのセットは何一つ存在しなかったものである。
そういうものを残すことになって、羊蹄丸が残せると喜ぶ人々…何か違和感を感じる。
ハリボテは金をかければ今からでもいくつだって作れるのである。
でも、本当の意味での歴史的遺産は唯一無二、一度失ったらもう二度と戻せないのだ。
同じ図面で再建しても、それは復元物であり、複製品や模造品でしかない。
実際に使われていたものには、贋造や複製と違い、それ相応の歴史があって、重みがある。
当時のものを保存するという本質は、そこに意味があるのだ。
なのに、実際に歴史を積み重ねたきた本物の羊蹄丸は解体されて、
展示の見せ物として平成の時代に作られた作り物の青森のセットが残された。
それで連絡船の歴史が残せた! …というのは、正しいことなのか。
単に偏屈な意見なのかもしれない。素直に喜べばいいのかもしれない。
でも、こういう間違えた見識と、本質を見い出せなくなった世間が、
大切な何かをダメにしているような気がする。それが恐い。
昭和初期の生き残りの電車は注目されず、SLを模した平成製の観光列車が人気を博す。
モノの本質を見極められなくなった人々に、大切なものを理解してもらうことは、
もうなかなか難しいのかもしれないですね。

そういう意味で、羊蹄丸の役割は本当に終わったということなのかもしれない。
世の中理想論だけで生きてはいかれない。このような結末でも、納得すべきなんだと思う。
少なくとも、自分はこの船を助けるための行動は何一つできなかったのだから、
あれこれと批判できる身分ではない。私も、この船の未来を見捨てた一人でしかないのだ。

47年間、お疲れ様。
自分は何もできなかったかもしれないけれど、たくさんの思い出と記憶を貰いましたよ。
生涯を終えるまで、それを大切にしていきます。



今回、動画も撮影してきました。
そして、25年前に撮影した、現役時代の羊蹄丸の映像も引っ張り出してきました。
羊蹄丸への感謝もこめて、ここで紹介しておこうと思います。

現役時代の映像は、四半世紀の間、ずっとしまいこんでいたものです。
今25歳以下の方は、この時代は未知の世界だと思います。
私はこの頃から、すでにビデオカメラを担いで旅していたのです。
かつてこういう光景が日本の片隅に存在したこと…
それを映像からちょっとでも感じ取って、記憶に残していただければ嬉しいです。
もう、二度と体験できない、日本のよき風景ですから。

貧弱な機材と粗末な撮影技術です。
特に25年前の映像は、まだ家庭用ビデオカメラが普及し始めた頃、
VHSの低性能ビデオカメラしかなかった時代のものですので、お見苦しいと思います。
お許しくださいますようお願いします。

[羊蹄丸解体] 2012年7月撮影 香川県多度津町


[羊蹄丸現役時代の記録 青森港入港・出港] 1988年8月撮影


[羊蹄丸現役時代の記録 函館→青森 2便(前編)] 1988年8月撮影


[羊蹄丸現役時代の記録 函館→青森 2便(後編)] 1988年8月撮影


[羊蹄丸現役時代の記録 最終航海 4便函館着] 1988年9月撮影



[青函連絡船最後の8隻(+2隻)のその後]
●津軽丸
 1982年の終航後北朝鮮へ売却、その後サウジアラビアに渡り カーフェリーとして活躍。
 1996年運航休止、1998年に火災に遭う。 同年解体
●八甲田丸
 1988年定期運航終了まで生き残る。
 同年夏に開催された青函博では 現役当時の姿のまま青森会場にて展示公開。
 その後青森港係留となり、現在も「メモリアルシップ八甲田丸」として保存中。
 後に汽笛が復元され、今も1日数回時報として吹鳴されている。
 2011年度、機械遺産第44号に指定。
●松前丸
 八甲田丸より若い船だが、搭載機器の違いなどの都合により1982年引退。
 1983年売却、国内にて活躍の予定だったが頓挫、結局1984年に北朝鮮へ。
 そのまま数年後にスクラップとなった。
●大雪丸
 検査期限切れの理由により、青函連絡船定期運航終了より2ヶ月ほど早く、
 1988年1月に退役。千葉県浦安市のシップホテルとして使われる計画で、
 横浜市内で改装工事を受けたが、このプロジェクトが中止となる。
 その後ハヤシマリンカンパニーが購入、長崎にてシップホテル「VICTORIA」
 としてオープンしたが、同社が2003年に倒産、その後別法人に譲渡されたが、
 港湾環境の問題などで継続営業が困難となり、2005年に閉鎖。
 後に中国に売却。行き先は福建省とされるが、その後の消息は不明。
 この船を買い取ったハヤシマリンカンパニーは、青函連絡船の平行航路を
 経営していた東日本フェリーの系列会社。東日本フェリーもこの頃廃業している。
 経営センスの乏しい会社に買い取られたことが運の尽きだったか。
●摩周丸
 青函連絡船定期運航終了の1988年3月まで活躍。同年夏の青函博では
 函館会場にて公開展示。その後第三セクターにより買い取られ、
 函館港にて「メモリアルシップ摩周丸」としてオープン。
 第三セクターはその後解散したが、摩周丸は函館市が購入し解体を逃れる。
 「函館市青函連絡船記念館摩周丸」として2003年から再公開、今も函館で保存中。
 汽笛が復元され、毎日正午と午後5時に吹鳴される。
 2011年度、機械遺産第44号に指定。
●羊蹄丸
 前述の通り。
 1988年3月の定期運航終了まで活躍、同年6月~9月に行われた臨時運航に使用され、
 最後まで津軽海峡を走り続けた青函連絡船となった。
 引退後は改装され、イタリア・ジェノバで開催された「国際船と海の博覧会」にて
 日本パビリオンとして活用。帰国後東京お台場の船の科学館にて保存。
 2003年、現役当時の塗装に復元。2012年船の科学館での展示終了。
 保存継続のため譲渡先を模索するも、結局資源リサイクル研究という名目で
 活用されることとなり、香川県にて解体されることとなった。
●十和田丸
 羊蹄丸より1年以上遅れて就航した、津軽丸型の末っ子。
 装備などもそれまでの船から向上が図られ、後にスタビライザーも追加装備。
 青函連絡船の花形として活躍した。
 1988年3月の定期運航終了後、同年夏に行われた臨時運航にも活躍。
 引退後はその装備を買われ、大幅に改造・改装された上で横浜~神戸間の>
 クルーズ船「ジャパニーズドリーム」として再就航。長く活躍すると思われたが、
 バブル崩壊と国内クルーズ不振などにより数年で経営難となる。
 その後しばらく係船された後、1995年フィリピンに売却、
 「フィリピンドリーム」という船名となり、シップホテル・カジノシップとして利用。
 これも長く続かず閉鎖され、フィリピンにてしばらく放置された。
 2008年にバングラデシュに送られ、解体された。
 最も若く設備も充実した船であり、「青函連絡船を残したい、海外に売りたくない」
 という強い意気込みでスタートしたプロジェクトによって救われたかに思えたが、
 運航会社の日本旅客船は名前だけで船の運航経験皆無という会社。
 早い話素人で、この業界の素人がこの事業を成功させることは困難だったようだ。
 結局十和田丸は一番早く日本から海外へ売却される運命となり、早い時期に解体された。
 おそらくクルーズ船になる運命を避けられていたら、どこかで保存船となっていたはずだ。
 一番理想的な第二の人生を送るはずだったが、その夢ははじつに儚いもので、
 おかげで短命となってしまった。皮肉な結果である。
●檜山丸
 元貨物船。1988年の定期運航終了まで活躍。
 引退後少年の船協会の研修船「21世紀号」として利用されるも、数年で係船。
 その後韓国・シンガポールを転々とした後インドネシアに売却。
 フェリー「Mandiri Nusantara」として就航したが、2003年台湾貨物船と衝突。
 復旧されたものの、2009年には火災に遭い沈没。
●石狩丸
 元貨物船。1988年の定期運航終了まで活躍。
 同年夏に開催された十勝海洋博覧会で展示された。
 その後関西空港工事の宿舎として利用される計画だったが立ち消えとなり、
 結局韓国に売船。キプロスからギリシャと渡り歩きカーフェリーとして活躍した後、
 地中海付近でチャーター船として余生を送る。2006年インドにて解体。
●空知丸
 最後まで残った貨物船で、1988年の定期運航終了まで活躍した。
 国内の法人に売却されたが、1992年にギリシャへ、2004年に韓国へ、
 2006年に再びギリシャへと、放浪の人生を送る。
 2011年まで長らく係留されたが、トルコの会社に売却。
 2012年7月、羊蹄丸と時期を同じくしてついに解体。