【啓蟄のコラム 江戸無血開城と山岡鉄舟】


1868年(慶応4年)3月9日(新暦4月1日)、幕臣・山岡鉄舟が駿府城で薩摩藩藩士・西郷隆盛と会見し、幕府の恭順謝罪の意を訴えて徳川家を救いました。

江戸無血開城といえば勝海舟と西郷隆盛が成し遂げたことのように伝えられておりますが、その前交渉に臨んだのが山岡鉄舟でした。

 


徳川慶喜の使者として3月9日官軍の駐留する駿府(現静岡市葵区)に赴き、伝馬町の松崎屋源兵衛宅で西郷と面会して談判することになります。

この時、刀がないほど困窮していた鉄舟は、親友の関口艮輔に大小を借りて官軍の陣営に向かいました。

官軍が警備する中を「朝敵徳川慶喜家来、山岡鉄太郎まかり通る!」と大音声で堂々と歩行していったといいます。

 

益満休之助に案内され、駿府で西郷に会った鉄舟は勝海舟の手紙を渡し、徳川慶喜の意向を述べると、朝廷に取り計らうよう頼みます。

この際、西郷から以下の5つの条件を提示されました。

 

一、江戸城を明け渡す。

一、城中の兵を向島に移す。

一、兵器をすべて差し出す。

一、軍艦をすべて引き渡す。

一、将軍慶喜は備前藩にあずける。

 

このうち最後の条件を鉄舟は拒みます。

西郷は「これは朝命である」と凄みますが、これに対し、鉄舟は「もし島津侯が(将軍慶喜と)同じ立場であったなら、あなたはこの条件を受け入れないはずである」と反論します。

西郷は、江戸百万の民と主君の命を守るため、死を覚悟して単身敵陣に乗り込み、最後まで主君への忠義を貫かんとする鉄舟の赤誠に触れて心を動かされ、その主張をもっともだとして認め、将軍慶喜の身の安全を保証することになるのです。

そして、3月13日・14日の勝海舟と西郷隆盛の江戸城開城の最終会談にも立ち会いました。

 

徳川慶喜が謹慎先の水戸へ向かう前夜、鉄舟が慶喜の御前に召し出されると、「(慶喜の救済、徳川家の家名存続、江戸無血開城)官軍に対し第一番に行ったのはそなただ。一番槍は鉄舟である。」と、慶喜自ら「来国俊」の短刀を鉄舟に与えたのです。

明治維新後は徳川家達に従い、駿府に下りますが、西郷のたっての依頼により明治5年(1872年)に宮中に出仕し、10年間の約束で侍従として明治天皇に仕えることになります。

 

明治14年(1881年)に新政府が維新の功績調査をした際には、勝海舟が提出した勲功録に全て勝がやったように書かれていましたが、実情を知っていた局員がおかしいと感じて三条実美に鉄舟のことを伝え、三条は腑に落ちないので、このことを岩倉具視に伝えました。

岩倉は鉄舟を呼び出し、「手柄は勝に譲るにしても、事実として後世に残さなければならない」と説得し、鉄舟に事実を書かせ提出させました。

 

その後、明治15年(1882年)になると、徳川家達は「徳川家存続は山岡鉄舟のお陰」として、徳川家家宝である「武藤正宗」の名刀を鉄舟に与えます。(勝海舟は名刀を与えられていません。)

岩倉具視も当時の一流の漢学者に、名刀の由来と鉄舟の功績を「正宗鍛刀記」にしたためさせたと言われています。

 


さらに明治16年(1883年)、鉄舟は維新に殉じた人々の菩提を弔うため東京都台東区谷中に普門山全生庵を建立します。

続いて明治18年(1885年)、一刀流小野宗家第9代の小野業雄からも道統と瓶割刀・朱引太刀・卍の印を継承し、一刀正伝無刀流を開き、明治20年(1887年)5月24日には、功績により子爵に叙されます。

 

明治21年(1888年)7月19日9時15分、鉄舟は胃癌により皇居に向かって結跏趺坐のまま絶命しました。

葬儀は22日に行われ、豪雨の中四谷の自邸を出た葬列は内意により皇居前で10分ほど止まり、明治天皇は高殿から目送されたと伝えられています。

会葬者は5千人にも上り、その人間性は西郷隆盛をして「金もいらぬ、名誉もいらぬ、命もいらぬ人は始末に困るが、そのような人でなければ天下の偉業は成し遂げられない」と賞賛したそうです。

享年53、戒名は「全生庵殿鉄舟高歩大居士」。

没後に勲二等旭日重光章を追贈されています。

勝海舟、高橋泥舟とともに「幕末の三舟」と称され、一刀正伝無刀流(無刀流)の開祖であり、愛刀は粟田口国吉や無名一文字、「剣・禅・書」の達人と伝えられています。