明日2月20日は、歌人・石川啄木の誕生日です。
1886年〈明治19年〉岩手県南岩手郡日戸(ひのと)村(現在の盛岡市日戸)に、曹洞宗日照山常光寺住職の父・石川一禎(いってい)と母・カツの長男として生まれました。
「啄木」は雅号で、本名は石川 一(いしかわ はじめ)という名です。
旧制盛岡中学校中退後、『明星』に寄稿する浪漫主義詩人として頭角を現し、満19歳で最初の詩集を刊行しました。
しかし、経済的事情から代用教員や新聞記者として勤める傍ら小説家を志すも失敗、東京で新聞の校正係になってから1910年に刊行した初の歌集『一握の砂』は三行分かち書き形式で生活に即した新しい歌風を取り入れ、歌人として名声を得るまでになりました。
その後は幸徳事件(大逆事件)を契機として、社会主義への関心を深め、文学評論も執筆しましたが、1912年(明治45年〉4月、小石川区久堅町の自宅にて肺結核のため満26歳で死去しました。
代表歌をいくつかご紹介します。
東海の小島の磯の白砂に
われ泣きぬれて
蟹とたはむる
歌集『一握の砂』巻頭の歌です。
青森県の大間町大間崎にある石川啄木歌碑に彫られており、この歌の原風景は大間崎で、東海の小島は沖の灯台の島「弁天島」であると説明されています。
はたらけど
はたらけど猶わが生活(くらし)楽にならざり
ぢつと手を見る
友がみなわれよりえらく見ゆる日よ
花を買ひ来て
妻としたしむ
教育学者・臨床心理学者の福田周氏は学術論文で石川啄木の死生観やその文学的表現を論じています。
福田の推測では、啄木は希死念慮、不眠症、抑うつなどの心身症を患っていたと考えていました。
その症状により啄木は、それまで無価値と見なしていた短歌を作るしかなくなり、栄達のための創作ではなく「無意識的な自己の内省作業」のような一種の「創造的退行」に嵌っていったようです。
そして、啄木にとっての「死」は「現実逃避」「安心」「寝る」ことと同様の意味を持ったのかもしれません。