慶応4年(明治元年)98日(西暦18681023日)皇太子睦仁親王(後の明治天皇)の即位による改元で「明治」が始まりました。



憲政体制に移行した時代であり、「明治」は憲政上最初の元号となりました。

また、「一世一元の制」による最初の元号でもあります。

改元の時には、明朝中国を模倣して一世一元の制を定め、天皇の御名(厳密には追号)として元号を用い、それまでの陰陽五行思想的改元を廃止したのです。(以降、現在の令和に至るまでの改元はすべて代始改元となっています。)

一世一元の詔(いっせいいちげんのみことのり)は、慶応4年を改めて「明治元年」とするとともに、天皇一代に元号一つという「一世一元の制」を定めた詔で、「明治改元の詔」とも言います。

新政府は天皇を中心とした新しい国家体制を築くことを目指して江戸を東京と改め、天皇が京都から東京に行幸し、明治2年(1869年)に政府機能が京都から東京に移されました(東京奠都)。

 


明治時代は、欧米列強の植民地化を免れるために近代化を推進した時代であり、世界史的に見れば日本の産業革命時代とも言えます。

それまでの侍や武士といった時代から生活に変化が起き、近代の礎を築いていくことになります。

 

この「明治」という元号は『易経』を典拠とし、「聖人南面而聴天下、嚮明而治(聖人南面して天下を聴き、明(めい)に嚮(むか)ひて治む)」

(「聖人が北極星のように顔を南に向けてとどまることを知れば、天下は明るい方向に向かって治まる」)という意味から天皇自らが宮中賢所で選出したとされています。

その後1889年(明治22年)の大日本帝国憲法公布に伴い「衆議院議員選挙」法が公布され、「直接国税15円以上を納税した満25歳以上の男子のみ」に選挙権を与えた制限選挙を実施し、1890年(明治23年)に最初の第1回帝国議会が開会される運びとなりました。

この憲法の発布により天皇中心の国家体制が確立されるとともに国民の権利と自由が認められ、国政参加への道が開かれたのです。

不十分であったとはいえ、他のアジア諸国に先駆けて憲法と議会を持つ近代国家への道を歩み始めることになります。

 

後に明治天皇【祐宮(さちのみや)睦仁(むつひと)天皇】は、その在位中に国力を伸長させた英明な天皇と謳われ「大帝」と称えられました。

明治天皇の崩御後、御霊を祀る神社を創建するに至り、関東一円の複数の候補地から選定の上で、大正9年(1920年)明治神宮が東京(原宿)に鎮座することになったのです。

皇后とともに和歌も多く残しており、その作品は今も明治神宮のおみくじに記されています。