世の中には様々な「種類」の痛みがあると考えられています。
例えば、病気などによる身体疾患、また精神疾患。人間関係の痛み。
貧困、戦争、虐待、仕事の悩み…
そのようなもの一つ一つを見ると、それらは分かれていて、違うもののように感じるかもしれません。
例えば、身体疾患を持っている人は精神疾患の人の痛みについてそれは自分の痛みとは違う、と考えるかもしれない。
そして、他者の自分の痛みと同じ、また似た痛みには共感を覚えるけども、違うと感じた痛みには共感を感じることは少ないかもしれない。
では、同じ身体疾患ならどうでしょう?
例えば慢性的な手の痛みになやまされている人は、慢性的な足の痛みに悩まされている人の痛みを理解できるでしょうか。
頭痛ならどうか?おそらく想像しやすいのではないかと思います。
ではもう一つ。
身体にある病を持っているとして、その病が治る代わりに、全財産を失い貧困に陥るとしたら?
多分安易に答えを出せないのではないでしょうか。
痛みの程度による、と考えるでしょう。
ここからもわかる通り、この2つは痛みの性質は違うけれども、比べられるものだ、ということです。
では虐待はどうか?それも同じだと思います。病の人生でない代わりに、虐待を受ける人生だったら?
悩むでしょう。
悩む、ということは比べられる、ということ。
これは痛みに共通性があるということだと思います。
自分の現在の痛みから、別の種類の痛みの想像が可能だと思います。
自分の身体疾患から、精神疾患、貧困、戦争…それらの痛みを考えてみる。
自分の身体の痛みは貧困の痛みと同じで、また戦争で子どもを無くした親の痛みを想像する。
ケアには専門性があります。
身体の病気のケア、またこころの病気のケアなど。
しかし、そこに属性による優先性はありません。身体の病気より精神の病気が優先されるわけでなく、またその逆もあり得ません。
必ず一つ一つの事例を見て判断される必要がある。
この判断ができるのは、専門性を越えた痛みの理解があるときでしょう。
専門性は、その専門性に閉じこもるのではなく、広く専門性を越えて様々な痛みに開かれたとき、専門性がより深まるのではないでしょうか。
自分の現在の痛みがどのようなものであれ、同じ種類の痛みだけでなく、あらゆる種類の痛みの理解に繋げることができると思います。
自分の痛みは、他者の痛みを理解し、より人がお互いに理解できるためにあると考えることもできるかもしれません。
痛みは辛いものです。
しかし、そこに意味を見出すことができると私は思います。
そのとき、痛みを別の視点から見ることができるようになるのではないかと思います。