イメージ図
Mt.Fuji Brewing 富士宮市にあるお店で、クラフトビールや自家製ジュースを楽しめます
美味しくてお洒落で良いお店でしたが、今ではもう営業していないそうです
『スティル・ライフ』で芥川賞を受賞した池澤先生の短編集から一編です。僕は仕事柄、頻繁に警察へ落し物やお金を届けに行くのですが、その度に「何でここまで面倒なことを」と思います。例えその落し物が裸の一円玉でも「どこで落ちていたか」「誰が拾ったか」「何日の何時何分に拾ったか」などを事細かに知らせなければいけません。まあ、面倒です。
それだけ面倒なプロセスを必要とする根本には、今回のタイトルにあるような「都市」というものが大きく関わってきているのだと思います。「都市」という多くの人間の集合体。そこで生活をするためには、全員である程度の足並みをそろえてキチっとさせなくてはいけない。頭ではわかっていても、いざやるとなると色々ざんない今日この頃。WBCは観たくて仕方がないのに、ネットフリックスに加入するのはどうも気が進まない人や未だにマイナンバーを作りあぐねている人の気持ちなんかもちょっと分かる気がします。
今回のお話も、そんな都市のシステムというかマニュアル管理された体制に嫌気がさすところから始まります。飛行機の予約時間を間違えて、急遽足止めを喰らってしまった男が今回の主人公です。三連休を目前に控えているためか、当日の便にこれ以上の空はなく、男は空席待ちを余儀なくされます。
しかし、空席待ちをしようにも、搭乗口まではキャリーケースを持ち込めず、乗れると決まっているわけでもないので預かってももらえません。「じゃあどうしろと言うんだ」と困惑する主人公でしたが、そこで上司と思しき男から「空席待ちの場合はキャリーケースを持ち込んでもいい」と係員に修正が入り、事なきを得ます。しかし、それでも中に入るためにはX線を通さねばならず、そこでまた「ハサミが入ってますね」と質疑応答が始まります。「これは預ける予定の荷物だから」と嫌になりながら答えると今度は「ハサミが持ち込める規定に達しているか調べるために計っていいか」とまた質問。主人公は聞くまでも無いだろと思いながらそれを了承します。ハサミは何とか規定をクリアしますが、仮に持ち込めないとなるとどこに預ければいいのかという話になります。
結局その夜に空きは来ず、主人公は早朝の便を予約して、ホテルに泊まります。そこでまたもトラブル。主人公はホテルから金額の判明していないクレジット伝票にサインしろと求められたのです。要するに泊まり逃げされないために、先に枷を付けておこうという魂胆ですが、主人公はこれを断固拒否します。当日の夜に急に泊まりに来た主人公はホテルから訝しまれたのでしょうが、結局はホテル側が折れて事なきを得ます。が、主人公の心は今までの二つのマニュアル応対からすっかり疲弊し、くさくさとした気分を味わいます。
サービス業に組している者から言わせてもらえば、この主人公以上の面倒な相手をいなしてトラブルを回避するためにこちらも面倒を承知で設けているわけだから堪忍してほしいと思う次第ですが、これは店側の都合。マニュアルは「金額も確定してない伝票にサインしたくない」「空席待ちをしなくてはいけないから荷物ごと入らせてもらいたい」という主人公の都合を丸っと無視しています。そこに思いやりが無いのは事実です。
くさくさするのもそうですが、とにかく空腹な主人公は黒板に書かれたオイスターの文字に惹かれ、ビストロに入って食事にします。そこで美味しい牡蠣とワインを飲んでようやく心のわだかまりが溶けていきます。西森博之先生の『カナカナ』という漫画内で「アイツが怒ったのは腹が減っていたからだ。だから飯を食えば大丈夫だ」といった下りがありましたが、この考え方は能天気なようで真理だとこの頃思います。
主人公は近くでデザートを食べている若い女性が何とも幸せそうにそれを口に運んでいるのを見て、静かに感動します。今の今まで機械的というか、いわゆる「都市」的なやりとりばかりだった主人公はその人間味あふれる姿に情感を覚えたのです。そして、目が合い相手が微笑みを投げてくれたのを皮切りに、コンタクトに成功します。「今日はひどい一日だった」と彼女はいきさつを話してくれます。
片親である彼女の母親が何度も新しい男を作っては金を取られていく。今日に至っては娘である彼女のお金にまで手を付けてしまったのです。そんなわけで彼女の気分は最悪でしたが、コースと最後のデザート、そして主人公に愚痴を吐けたことで少し気が晴れたとお礼を言います。
とにかく会話がしたいと望んでいた主人公はこの女性との僅かな時間の会話におそらくとても朗らかというか、実りのある思いができたと思います。都市的生活によって荒んだ心が潤わされたのです。しかし、本文の最後では主人公は心に三つの不満を憶えます。
一つは話を聞いていたことで自分のチキンが冷めてしまったこと。二つ目は彼女との関係がこれきりなこと。そしてもう一つ、彼女は主人公に「牡蠣を食べているあなたもとても幸せそうに見えた」と返されたのですが、その理由。彼女同様にイヤな思いをしてきた一日だったことを話せなかったこと。
主人公はこの女性に強く惹かれ、一瞬ながらも特別な夜になったことだというのが、不満(心残り)という形で、しかし爽やかに終わる粋な文章です。不満は三つと書かれていましたが、きっと彼女に話したいことや、彼女に抱いた事柄はその何十倍ものかずがあったのだろうと分かる、奥行きを感じるラストだと思います。
丁度、単調で無機質で、暖簾に腕押しという感じだったマニュアル対応とは真反対な正しくの会話。昨今ではマニュアル対応どころか、セルフレジや無人販売所が主流になって来てすらいる「都市生活」っぷりで、個人的にはそれも別にアリですが、だからと言ってこういう柔和で複雑で、奥行きのある「他人との交流」の全てを否定してはいけないというのがよく分かる作品です。
出典:『きみのためのバラ』池澤夏樹 新潮文庫(2010.9.1)
