ヤフーの記事なんかのコメントって得票の多いコメント5件が前面に出るようになってるが、それって最初に真っ当な意見を書き込めばそれが得票得るのは当然の結果だよな。

だからそういうので上位を占められては、後に書き込まれた有効な意見が全く意味をなさないのはどうかと。どうせユーザーは初めの5件しか見てないんだから。

だからどんどんその5件が得票を重ねて上位を固めていって不動の地位を確立する。すべての意見から選ばれたものでもないのに。別な意見を見て考えが変わることだってあるのに。

得票を増やしたければ最初に一般的に受け入れられそうなことを書いてしまうと、もう他の意見は日の目を見ることがほとんどなくなる。もっと有効で重要な意見が前面に出なければ良くならない。その辺、改善しないと駄目だ。
opera

○軽いのはいい シンプルなインターフェースもすき
×軽さを売りにしているせいか不都合なサイトがある(こことか楽天とか)ログイン関係での不都合が多い 機能的に乏しい

google chrome

○operaとfirefoxの中間 機能的にまずまずで軽さもある
×↑が中途半端

firefox

○プラグインが多い IEに次ぐ対応サイトが多い
×プラグインが増えるとIE並に重くなる(それ以上か)


軽快さ
opera > google chrome > firefox

機能さ
firefox > google chrome > opera


operaの軽さに慣れると他の二つは重く感じるし、firefoxの便利さに慣れるとoperaはかなり不便に感じる。なんだかなあ~
「良い写真とは言うけども、写真は自己満足か」



写真家と呼ばれている人は写真家に認められた人。だからそれをずっと辿っていくと写真家はいずれいなくなる。つまり始点である。

始点では写真家(芸術家)という肩書きを持たない人が大名に認められて?それとも政府に認められて?はたまた美術の先生に認められて?そういう人たちが集まって『会』を結成し現在の写真コンテストなるものが残っていると考える。

じゃあ、美術の先生は誰に認められて先生になったのか。おそらく誰もが認める(理解できる)写実的な絵を描く人間がまわりから「絵の上手な人」と認められ、その時の権力の支配者が寵愛し、いわば’お墨付き’をもらい世間に周知させたのではないか。

その結果、価値観は継承され現在の芸術価値を決めているのではないだろうか。良い写真とは何を基準にしているんだろうか。民主主義だろうか。君主政治だろうか。写真家が認めない良い写真というのもある。

現にネットの写真投稿コミュニティを見れば明らかである。それらは悪い写真なんだろうか。民主主義(一般ユーザー)による得票は多いけれど落選させられる写真も多い。写真家の基準がすべてなんだろうか。良い写真とはなんだろうか。