排泄は生きとし生けるもの全てが共有する生きるための生理現象。
中でも多数の人間はその排泄に対して極めて私的で
閉ざされた孤独な空間で行う秘事でもあります。
その秘事の場所を人間は公と私に設けています。
その公におけるトイレで鈍痛を抱える場面にここ数年出くわしますようになりました。
最も鈍痛を抱えたままその場を立ち去らなければならないのは
男性用に限られるのかもしれませんが
『この便器は人がいない時も水が流れます』
という超常現象の告知。
男性用起立式便器は、その前に人が立ち、そして離れるとセンサーが感知して水が流れ
使用者に対して手指の衛生を守り、心情的安寧を与えてくれる人に優しい陶器です。
そんな人の立場に立ちながら、見返りを求めず淡々と排泄を受けとめた上に使用者の衛生と心の安らぎまで与えてくれるあの便器に
そんな恐ろしい現象が起きるという告知を貼ってしまう無情さに、いつも言葉を無くし申し訳ない気持ちになりながらその場をあとにします。
もしそれが、衛生上の問題だとして
先ずその告知は必要なのか
人がいない時なら、いないんだから告知は不用です。
ワタシは人がいない時も働いてますよアピールだとしたら、人が見てようが見てまいが黙々と働いているあの便器の品を下げる行為かもしれません。
それから人が使ったあとに水が流れるなら
それ以上水を使わずとも環境問題からもSDGsの観点からもモッタイナイ。
そして用を出しに公衆トイレに立ち
これを目にして私たちは何を思えば良いのでしょうか。
ある日私はこの告知を見て思い出した言葉があります
『ひとは 見たいと欲する現実しか見ていない』ユリユス カエサル
公衆水洗トイレはローマ帝国において存在していたと言います。
しかもその水洗トイレは人がいない時も常に水が流れているタイプが主流だったと。
それを踏まえて上記のカエサルの至言。
そうか、この告知はローマ帝国から現代に生きる我々に対するメッセージだったんですね。
私たちは見たいものだけ見て、それ以外は視界から閉ざす。
まさに昨今取り沙汰されている事件を深刻化した背景にも通じます。
この告知はもはや歴史的な格言だったのです。
これから公衆トイレに入るたびに
悠久のローマ帝国に想いを馳せ
私たちが生きるこの社会の混沌に対して
それで良いのか と自問自答自戒自責自省の念を抱き律してスッキリしてトイレをあとにできるようになります。
本当に素晴らしい格言をありがとう。