エディ・アーノルド 「I Really Don’t Want To Know」 | アラフォー世代が楽しめる音楽と映画

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結婚、育児、人間関係、肌や身体の衰え、将来への不安...
ストレスを抱えるアラフォー世代が、聴いて楽しめる音楽、観て楽しめる映画を紹介します。
でも自分が好きな作品だけです!    

 一人黙々と自営業の仕事をこなしていると、サラリーマン時代に接した人々を想い出すことがある。それは人恋しさの表れなのだろう。先輩後輩の間柄、男女間の微妙な隔たり、上司部下の主従関係、部門の違う社員との交わり...と、人はその時の立場(役職)と生まれ育ったバックボーンにより考え方の違いが出てしまう。居れば居たで厄介な問題が生じる場合もあるが、今はそれさえも懐かしく感じる。
 長く付き合った人々、短いながら印象に残る人々等、様々である。その中の一人、ある庶務員の話をする。彼女は法政大学を卒業した才媛で、よく気が利く。容姿も美人の部類に入り、彼女ほどの器量ならばもっと良い就職口が幾らでもあったと思うが、地元志向が強く新設されたばかりの郡山営業所に就職した。
 当時ボクは仙台営業所に所属しており、福島出張の折には彼女目当てに必ず営業所に寄っていた。美人で才媛の彼女はそれを鼻に掛けることもなく、見た目と違い素朴だった。身持ちも固く、結婚すればきっと良妻賢母になると思われた。そして結構話好きであった。勿論、上司(所長)がいる時はそういう態度も取れなかったが、不在の時は色々と私的な話をした。年齢も近く(彼女が2つ上)て波長も合い、彼女と話している時はとても楽しかった。まさしく砂漠の中のオアシスで、ボクの福島出張の際の秘かな愉しみであった。

 その時は「どんな音楽を聴いていたか?」で話が盛り上がった。彼女は小椋 桂の曲が好きで、「こんな素敵な曲を書く小椋 桂の実物を一度は見てみたい。」と思っていたそうだ。当時、小椋 桂は歌番組に出演することはなく、実像は謎に包まれていた。そこで少女趣味の面がある彼女は曲と歌声から勝手にイメージを膨らませていたのである。きっと少女漫画に出てくる美少年とまではいかないものの、それ相応の端正な顔立ちをした大人の男性を思い浮かべていたに違いない。
 そして彼女の希望が叶う時が来た。おそらくNHKの特番だと思うが、小椋 桂のコンサートの模様が流されたのだ。彼女はその日を一日千秋の思いで待ち、録画の準備もしていたそうだ。
 コンサート会場の俯瞰から始まり、ステージに置かれた楽譜の前の椅子に座る小椋 桂の御身...遂にヴェールに包まれた小椋 桂の容姿が拝める━━━「えっ!」 彼女は愕然とした。乙女心が容赦なく崩れたのだ。
 「あんな素敵な曲を書く人なのに...裏切られたわ!」彼女の言葉にボクは横腹をペンチで捻られたように破顔し、笑いが止まらなかった。確かに「シクラメンのかほり」「めまい」「絵日記」等の詩から、禿げたメガネ狸のような容姿は想像がつかない。それどころか彼の詩は常人ではとても思い浮かばないほど洗練されたものだ。「俺たちの旅」の主題歌一つ挙げても「♪夢の坂道は木の葉模様の石畳 まばゆく長い白い壁 足跡も影も残さないで 辿り着けない山の中へ続いている...。」と、言葉並びにとても格調がある。それだけに彼女の落胆ぶりがまるで眼前で見たように浮かんでくるのだ。
 決して小椋 桂を貶すつもりはない。彼の詩はとても品性があり、また彼の経歴を見ればとてもボクなど遥か及びもしない存在である。ただ人は誰しも想像と現実のギャップ、激しい思い込みによる誤った認識があるということを言いたかっただけである。大概それは第三者から見れば滑稽なものだ。

 観るともなく観た映画で、それまでの誤解を正されたことがある。先日、深夜に『ママの遺したラヴソング』という映画が放映されていた。主人公はジョン・トラヴォルタとスカーレット・ヨハンソンである。実はボクにも生理的に受け容れられない俳優がいて、それがジョン・トラヴォルタなのだ。『サタデーナイト・フィーバー』の頃から気色悪い男だと思っていた。またスカーレット・ヨハンソンに関しても、役柄上の幼稚性から女性としての魅力を感じなかった。
 つまりボクにとっては全く関心の無い二人が主演する映画であり、さっさと就寝するつもりでいたのだが、その日に限って妙に目が冴え、ついテレビを点けてしまった。きっと『ママの遺したラヴソング』のタイトル名から勝手にロマンティックなイメージを膨らませたのであろう。“残した”ではなく“遺した”と記したことから彼女は既に亡くなっており、娘に何かで以って伝えたい事実があったのだろうと...。

 パースレイン・ホミニー・ウィル...愛称パーシー(スカーレット・ヨハンソン)は幼い頃に母親に捨てられたも同然で、フロリダでトレーラーハウス暮らしをしている。彼女は高校を中退し、今は同年代の男と同居している。
 ある日、長年音信不通にしていた母が死んだという手紙が届いたが、同居人の男は生来の不精者なのか、パーシーに伝えたのは二、三日後だった。パーシーは同居人の男の配慮の無さに怒り出し、全ての荷物を纏めてトレーラーハウスから出て行った。向かう先は生まれ故郷で、子供時代を過ごしたルイジアナ州ニュー・オーリンズである。
 ニュー・オーリンズに到着したパーシーだったが、既に母の友人達の間で葬式は済んでいた。彼女は街を歩き、母親の家を探す。その家は母が彼女の為に遺してくれたものだ。ようやくパーシーは一軒の古い家を見つけ、中に入った。すると驚くべきことに、二人の見知らぬ男性が住みついていたのだ。
 一人はボビー・ロング(ジョン・トラヴォルタ)という醜く太った中年男。彼は以前、アラバマで文学の教授をしていたらしいのだが、何か訳有りで家族からも隠れてこのニュー・オーリンズの片隅で酒に溺れて暮らしている。もう一人はボビーの教授時代からの助手ローソン・パインズ(ガブリエル・マクト)という若い男である。ローソンは小説家志望で、いつか「ボビー・ロングの生涯」という小説を刊行したく、長々とずっと書き続けている。
 ボビーもローソンも小汚い格好で、家の中はお酒の空瓶で溢れている始末。二人とも極度のアルコール中毒だった。パーシーの二人に対する印象は最悪だった。

 パーシーは「自分がこの家を相続するのだから出て行って!」と言うと、何とボビーは「君の母ロレーンはこの三人に三等分して相続してくれたのだ。」と主張する。
 理不尽な返答に怒ったパーシーはフロリダに戻ろうと外に出た。その時、ボビーは生前母ロレーンが読んでいた小本を渡した。駅でそれを読み終えたパーシーは、生前の母をもっと知りたくなり、引き返した。こうしてパーシーと二人の男の奇妙な同居生活が嫌々ながらに始まるのであった...。
 先ず彼女は生活を安定させようと職探しをする。だが二人の男は酒ばかり飲んで働こうとしない。彼女は酒浸りの二人の尻を叩き、古くなった家の修理や手入れを手伝わせる。初め彼女は二人の男を蔑視していたが、こういうことの繰返しで少しだけ距離が縮まっていく。

 近所の者達は皆、パーシーの母親ロレーンを知っていた。ロレーンは自由奔放なカントリー歌手で、それ故パーシーは放り出される形で祖母に育てられた。しかし近所の者達は誰もロレーンのことを悪く言わなかった。寧ろ愛されていたようだ。既にパーシーの存在はロレーンの愛娘ということで街中に知られていた。
 ある日、花咲く路を歩いていたパーシーに一人の初老の男が声を掛け、一輪の花を摘んで渡した。それはハーブ科の植物パースレイン(花滑りひゆ)という花だった。初老の男はロレーンとの想い出話をし、「君の名はロレーンがこの花から名付けたものだ。」と教えてくれた。

 時折、ボビーとその友人達は空き地や酒場に集まっては昔の想い出話に明け暮れる。ロレーンの話題になると、友人や仲間達は生前の彼女との想い出を大切にし、その娘パーシーを慈しんでくれる。パーシーは母親が皆に愛されていたことを身を以て知り、彼女の心は次第に癒されていく。そしてそれまで全く知らなかった亡き母の過去を聞かされるうちに、母親への恨みは消えていった。
 彼女の心の移り変わりはボビーとローソンに対しても向けられ、二人は母ロレーンの生涯を語る上で大きな意義を占めていた存在だったと理解し、その生き方に尊敬の念が湧き上がる。二人の男はパーシーに「きちんとした教育を受けた方が良い。」と盛んに勧め、ボビーが教師役を買って出て、苦学の末に彼女は大学入試に合格する。
 母親に愛されなかったと思っていた孤独な少女はボビーやローソンと同居することで様々なことを学び、反抗心が和らぎ、寛大さを養っていく。そして少女から大人の女性へと心の成長を遂げていく...。

 ボビーは偶にギターを抱え、弾き語りをする。それはロレーンへの秘やかな想いを綴ったものである。勿論、英語の歌だったが、メロディを聴いた途端、「あれ? これって菅原洋一の『知りたくないの』じゃないか!」と思った。でも菅原洋一は坂本 九みたいにアメリカに進出し大ヒットを放ったとは聞かない。なのに何故アメリカ人が歌っているのだ? ボクはとても困惑した。
 翌日、ネットで調べてみると、この曲は元々エディ・アーノルドというカントリー歌手が1954年にヒットさせたのがオリジナルで、今ではスタンダード曲になっている。日本では作詞家なかにし礼が日本語歌詞にし、菅原洋一が歌って大ヒットとなったのであるが、オリジナルはその遡ること10年以上前の古いナンバーだったのだ。恥ずかしながらボクはこの歳になるまで、「知りたくないの」が翻訳された曲であったことを知らずにいたのである。
 日本語歌詞はよく知られているが、原詩を眺めるとボビーのロレーンへのナイーヴな情感が痛いように伝わり、この映画の巧みな演出に喝采を送らずにはいられない。それにしてもこんな素晴らしい詩だったとは!

 先の小椋 桂の例ではないが、男の切ない心情を鑑みると、失礼ながらフライパンで焼かれる前のミンチ状態のハンバーグのような顔をした菅原洋一が歌うのは些か不釣合いな気がする...。

       「I Really Don't Want To Know」 words by Howard Barnes & music by Don Robertson
     
     How many arms have held you, And hated to let you go?
     How many, how many, I wonder. But I really don't want to know

     How many lips have kissed you, And set your soul aglow?
     How many, oh how many, I wonder. But I really don't want to know

     So always make me wonder, Always make me guess
     And even if I ask you, Darling don't confess

     Just let it remain your secret.‘Cause darling I love you so
     No wonder, no no wonder, I wonder. But I really don't want to know


       「君の本当のことは知りたくない」  (拙 訳) 

     一体これまで何人もの男が君を抱きしめ  別れを拒んだであろうか?
     どれだけ多くの...どんな男達が...   されど僕は本当のことは知りたくない

     一体これまで何人もの男が君の唇を奪い  君の心を昂らせたであろうか? 
     片時もずっとそんなことを考えては...   だから僕は本当のことは知りたくない

     そんなことに僕はいつも心悩ませ       色々考えては平常ではいられなくなる
     でもたとえ僕が訊こうとも            愛しい人よ 答えないでおくれ

     秘密は君の胸に閉まっておいて       何故なら僕は泣けるほど、君を愛しているから
     決しておかしな要求ではないさ        僕は君の本当のことは知りたくないんだ 
  

 ボクはカントリー&ウエスタンは全く聴かないので、エディ・アーノルドのことは知らなかった。しかし調べてみると大変な大物で、最も偉大なカントリー・シンガーと呼ぶに相応しい人物のようであった。
 1919年、テネシー州の農村で生まれたエディは10歳の時に初めてギターを買ってもらう。丁度時を同じくして父親を亡くしたエディは家業を助ける為に学校を中退し、農業の傍ら地元のスクエアダンス場で演奏するようになった。また当時のラジオ番組にもレギュラー出演していた。
 更にエディは“キャメル・キャラバン”という演奏一座に加わって地方巡業を重ねた末、遂に44年にRCAと契約を結ぶに到る。45年、「Each Minute Seems Like A Million Years」で念願のレコード・デビューを果たし、この曲はカントリー・ヒット・チャート5位まで駆け上り、新人としては順調な滑り出しだった。
 その後、3曲立続けにトップテン入りを果たした後に「What Is Life Without You」が初のナンバーワン・ヒットとなり、また時代的にカントリー・ミュージックも全米規模で人気が沸騰し始めて、エディ・アーノルドは一躍絶大な人気を誇るようになる。

 この頃、エディはトム・パーカー大佐(後にエルヴィス・プレスリーのマネジャーにもなる)とマネージメント契約を結ぶ。全米進出を狙うパーカー大佐は辣腕ぶりを発揮し、マルチメディア戦略の一環として当時新興メディアだったテレビに出演させ、エディにCBSやNBCのショー番組のホストを務めさせた。長身で端正な顔立ち、歌の上手いエディのテレビ出演は、エディにとっても新境地開拓となり、大成功を収める。
 しかし53年になると、パーカー大佐の強引な手法に業を煮やしたエディが一方的に解雇通告を突きつけた。パーカー大
佐はエディに映画出演を強要するが、エディは乗り気ではなかった。後にパーカー大佐はこの苦い経験を踏み台にエルヴィスを映画出演させることで、メディア戦略で大成功を収める。
 それでもエディの人気は衰えを見せず、リリースされる曲は常にカントリー・チャートを賑わせた。エディのカントリー・チャートでのナンバーワン・ヒットは実に28曲を数え、特に40年代後半から50年半ば頃まで、エディの歌声がラジオから流れない日はないほどの盛況であった。
 それらの功績を認められ、66年にはカントリー・ホール・オブ・フェームに殿堂入りし、84年にはアカデミー・オブ・カントリー・ミュージックからパイオニア賞を授与されたのである。
 先述したように後にエルヴィス・プレスリーのマネジャーとなったパーカー大佐は、エディのマネジャー時代の多岐に渡る宣伝戦略の試行錯誤の下にエルヴィスを世界的成功に導いたと言える。そういう意味ではエディ・アーノルドはエルヴィス・プレスリーのカントリー版プロット・タイプなのだ。事実、エルヴィスはエディのカバー曲を何と9曲も取り上げているのだ。如何に意識していたかの証明となろう。


「Ultimate Eddy Arnord」/エディ・アーノルド [輸入盤CD]

 再び映画の話に戻す。『ママの遺したラヴソング』の終盤の方ではボビー・ロングが何故、家庭を捨ててニュー・オーリンズで暮らしているのか? それからパーシーの本当の父親の存在が明らかになる。(勘の鋭い人ならすぐに読めてしまうが...。)
 この映画は勝気で反発心旺盛な少女が、母を知る人々の話やニュー・オーリンズに咲く花々や優しい風に撫でられるうちに、母への誤解を解き、心が豊かになって大人の女性へと変身していく様をじっくりと捉えている。初めて二人の男に会った時、パーシーはTシャツを着たラフな格好だったが、後に母ロレーンの残したサマードレスを着て二人の男を驚かせる。きっと二人の男はそこに母ロレーンの面影を見たのであろう。
 しかしボクにはさほど関心の無いこと。この映画を観た一番の収穫は菅原洋一の「知りたくないの」には原曲があり、エディ・アーノルドが歌うカントリー・ソングであると知り得たことだ。この歳になって初めて知るとは!

 エルヴィス始め、この曲は幾多の著名なアーティストがカバーしていますが、今回は澄み切った発音が聞き取り易いコニー・フランシスのヴァージョンをお聴き下さい。