プレアデスから
To facilitate our rebirth into the Seon Humankind
Practice love to save the Earth and its families
No more materialistic life,
And create harmony between human and nature,
Understand the true path of human life
アセンションのサイン
https://youtu.be/1r7dQ6TCzSM「自己愛」とは、自分の魂を大切にする生き方をすること。
自分を否定しない。自分が至らなかったから、相手が裏切ったのかもしれないと自己否定しない。
人の過ちはその人の問題であって、あなたの価値とは無関係。
今ある小さな幸せを積み重ねる。
心が安らぐ、足るを知る心を持つ人を選ぶ。
仏教では「自分を大切にしてくれない人と一緒にいると、不幸になる」と説かれている。
「精神的自立」とは、自分のことは自分で決める。周囲の期待や意向、世間の常識に沿うんじゃなくて、自分の心に聞いて自己決定ができること。
「悪」とは
混ざらないことが大切。清らかな水は毒と混ざらなければ汚れることはない。悪に対して戦うのではなく、悪から遠ざかって自分を清らかに保てばよい。悪が攻撃してきたら、悪を消すためではなく、正しきものを守るために剣を振るえ。
非難、嘲笑、嫉妬、疑惑、拒絶、絶望は、心の中にある毒から生じます。
※嫉妬する人は、自分の中に未解決の問題があることを示す。嫉妬とは、相手に対して能力が劣ることの無意識の表れに過ぎない。嫉妬される人は、彼らが持たないものを持っていることを示す単なる鏡。彼らが努力すべきことを映す鏡なので、嫉妬される人はそのまま輝き続ける強さを持つこと。
「白象が今まで乗り越えてきた苦しみや辛さをしっかりと受け止めてくれる人は、
白象に対して自分の気持ちをはぐらかしたり、曖昧にしたりはしない。」
「本当にあなたを愛しているのなら、あなたを苦しませる行動をするでしょうか?
あなたがすべきことは、自分自身を大切にすることです」
<心優しい人が縁を切るべき人たちの特徴=人間性の低い人>
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感謝しない人ー―当然のように受け取り、感謝の気持ちを表さない人。
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一方的に利用する人ー―常に頼みごとをしてきたり、助けを求めてきて、こちらが何かをしてあげるときだけ親しく接してきて、いざこちらが困っているときには全く助けてくれない人。
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自分の責任を押し付ける人――自分のミスや問題を他人のせいにして、その責任を押し付けてくる人。自らの選択や行動に向き合うことなく、他を責めることで安心しようとする。しかし、責任を押し付ける者は、決して成長しない。
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陰口や噂話が多い人=事実を捻じ曲げ、周囲を操ろうとする人ーー嘘や誤解を生みだし、人の心を動かそうとする者は、やがて誰からも信用されなくなる
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自分の成長を妨げる人=他人の成功を嫉み、素直に喜べない人――誰かが褒められると、不機嫌になり、評価を貶めるような言葉を口にする。他者を認められない者は、決して自らの価値を高めることはできない。「悪縁」であり、あなたの進むべき道を塞ぐ人。
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怒りを制御できず、すぐに苛立つ人ーー思い通りにならないことがあれば、すぐに声を荒げ、周囲の人間を遠ざける。
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心の中に、恐れがあることを認められない人ーー失敗を恐れ、評価を失うことを恐れ、自分が人より劣っているのではないかと恐れているが、それを認めることが出来ず、強がりや怒りにすり替える。恐れと向き合えない者は、決して自由にはなれない。
「心に闇を抱く者に直接対峙しても、闇は深まるばかり」「まずは、自分の心を清らかに保ちなさい」
相手をどうにかしようとするのではなく、まずは自分自身が曇らないようにしなければなりません。人間性の低い者は、自らの行動によって、さらに心を濁らせていく。だから、それに巻き込まれないようにしなさい。自分の心を守ることが、何よりも大切です。
優しさが行き過ぎると、自己犠牲や他者の都合による搾取につながります。「優しい人だから大丈夫」と周囲がその人に過度に依存したり、悪意を持つ人に利用されたりするケースです。特に仏教では、この状態を「善悪を見極められない無知」とし、注意を促しています。
「真実を知る目を持ちなさい。優しさを与える先が善であるか悪であるかを見極めることで、自分の心を守ることが出来る」
「水は誰にでも与えらえるが、毒を流し込む者にも与えてはならない」
「嘘と言うものは、信じた人の中でしか力を持たない。私はその嘘を受け入れない」
他者の誤解や疑念を晴らすことが出来るのは、言葉ではなく、自分の行いだけです。「真実は語らずとも輝く」「濁った水をかき混ぜても、さらに濁るだけ。静かに待てば、自然と澄んで行く」「人の心は風のようなものだ。強く吹けば吹くほど、塵や埃が舞い上がる。しかし、静かに待てば、やがてそれは地に落ち、元の澄んだ空に戻る」
🌟友人関係とは、互いに支え合うものでなければなりません。もしも一方的に与えるだけで、相手からの感謝や支援がないのなら、その関係は真の友情とは言えません。友情には相互の信頼と尊敬が必要です。もしそれがないのなら、その関係を清算して新たな道を進む準備をすること。友情とは、利益や快楽のためではなく、相手を心から大切にし、共に成長することを望むもの。
🌟慈悲とは、相手を思いやる気持ちと同時に、自分自身を大切にする心。
🌟相手を依存させ続けることは、その人の成長の機会を奪ってしまうので悪いこと。
🌟不公平な状況に自分を置き続けることは、心の平安を乱す原因となり、そういった人たちの縁を切ることが、あなた自身が正しい行動を選べる環境を取り戻すために必要なこと。
🌟成長を妨げる関係に自分を置き続けることは、心に悪影響を及ぼし、人生を停滞させる原因。
🌟悪い縁を切ることは、お互いにとって最良の選択である。相手に対しても、自分に対しても優しさを持つ選択である。縁を見直し、必要な時には距離を置くことは、あなたの成長の一環であり、自分を愛し、未来を信じる行動である。
「平穏な心は、自分に害を与えるものから離れることで得られる」
人間関係は、相手を思いやるだけでなく、自分を大切にすることが必要。どちらかが欠けていれば、その関係は健全ではない「悪友を避け、善友を求めよ」「毒を持つ者と歩むな、その毒はいつか己をも蝕む」『六法礼拝経ろっぽうらいはいきょう』という経典の中には、避けるべき4種類の人が説かれています。
彼らの真の意図は、あなたの幸福ではなく、彼ら自身の利益を追求することにあります。
①奪う人【利益を求める友】(鏡:与えすぎる傾向のある人に出現しがち)
常に与えられることだけを求め、自らは与えようとしない者。自分が与える時は少なく、もらうは多く受け取ろうとする人。自分の利益のみを追求する人。
あなたに何かを求めるときだけ親しみを見せ、あなたが助けを必要とするときは何もしてくれません。
②言葉だけの人【口先だけの友】(鏡:言葉と行動の不一致の人に出現しがち)
行動が伴わず、口先だけの人。過去のことばかりを語り、未来のことばかりを約束し、現在為すべきことをしない者。「あのときは、ああしてあげた」と過去のことを恩に着せて、友情を装い、「今度、こうしてあげるから」と未来のことに関して友情を装う。なすべきことが迫ってくると、「都合が悪い」と逃げる人。
言葉巧みに親しさを演出し、あなたに近づいてきますが、実際には行動で支えることはありません。彼らの言葉は空虚で、あなたが困難に陥った時、彼らは口先では励ましを言うかもしれませんが、実施には何も行動には移しません。
③甘言を語る人【悪習に導く友、追従する友・面従腹背(めんじゅうふくはい)の人】(鏡:自己承認欲求の強い人に出現しがち)
悪事を共にすることを是認し、善事を共にすることを是認しない人。目の前ではお世辞を言い、甘い言葉で誘い、裏では陰口をたたく人。うわべだけのうまい言葉を語って、中身がともなわない人。
彼らはあなたを悪い道に誘い込みます。彼らは自分の快楽や欲望を満たすためにあなたを利用し、あなたを堕落させようとします。彼らは、あなたの本当の幸せを考えているのではなく、共に悪習に溺れることを楽しんでいるのです。
【面従腹背(めんじゅうふくはい)の人】相手の立場や人によって極端に態度を変える人。
上司の前では頭を下げて丁寧な言葉使いをし、部下には威圧的な態度を取る人。
客には笑顔で、アルバイトの若い子には冷たい態度の店員。
SNSで慈愛に満ちた言葉を投稿し、家族には暴言を吐く人。
話題がその場にいない人の悪口や噂話ばかり、他者の欠点ばかりつつく人。
上役や権力者の前だけ善行を行い、自分の評判を良くするために善行アピールをするが、見返りがない相手の前では何もしない人。
④遊蕩ゆうとうの人【怠惰を奨励する友、堕落の友】(鏡:自制心の弱い人に出現しがち)
飲酒、麻薬、ギャンブル(賭博)、夜街をふらつき歩く(遊興)、お祭り騒ぎや放逸(ほういつ)にふける人。
彼らはあなたに努力や精進を軽んじさせ、怠惰な生活へと誘います。彼らは、あなたの成長を妨げ、あなたを引きずり下ろす存在です。彼らと共にいることで、あなたは自分本来の力を発揮することができなくなってしまいます。
<対策は「捨離の心」>
必要以上に他者に縛られず、健全な距離を保ちながら、自分自身の成長に集中することで、真の自由と成長が得られる。それは単に関係を切ることではなく、有害な関係から自分を解放し、より健全な関係を築く。
「その縁があなたに毒をもたらすものであるかを見極めることもまた智慧なのです。毒蛇と共に歩む者は、いずれその毒に侵される。心が濁ったものとの付き合いは、濁った水が清らかな水を濁すようなもの。悪しき者の近くにいる者は、己の心を曇らせる。心に濁りがあれば、世界も曇って見える。人の心にに濁りあれば、その行動もまた濁る。心をクリアにして、誰があなたにとって真の友であり、誰があなたを引きずり降ろす者かを見極めることです。もし真の友がいないのであれば、あなた自身を大切にする道を選び、無理に付き合い続ける必要はありません」
「縁を切ることは、時に恐れを伴います。しかしその決断があなた自身を守り、心の平和を保つためのものであるならば、それは智慧の一歩なのです。縁を切ることは憎しみではなく、自分も相手も解放する行為なのです。悪友に優しくすることで、あなたは彼らの自立を妨げています。悪友に邪魔されて、あなたは言葉と行動の不一致をまねきます。悪友と一緒にいることで、悪友の言う悪口にあなたも同調していると周囲から見なされます」
「自分を高めることに集中しなさい。自らの山を登る努力をすれば、悪友は自然と離れていき、善友が集まって来るでしょう。与えるときは見返りを求めず、相手の自立を促すよう心がけること。約束したことは必ず守り、言葉と行動の一致に努めること。他人の悪口は言わず、建設的な意見を述べること。自制心を持って生活するよう心がけること」
「悪友に対して感情的に反応するのではなく、冷静に距離を取りなさい。悪友の行動がどのような影響を周囲に与えたかを客観的に見つめ、それを周囲に伝えるのです。決して相手を攻撃するのではなく、自分の立場を明確にすることが大切です。縁を切ることは相手を否定することではなく、自分を守る行為であると理解しなさい」
「人は縁を切ることに恐れを抱きますが、その縁があなたに毒を与えるものであれば、それを断ち切る勇気があなた自身を守る力となるのです。これからも、あなたの秤を公平に保ちなさい」
「真の友を見極めること。そして時には孤独を恐れずに進むことが必要です」
「悪友を避け、善友を求めよ。しかし、善友が得られなければ孤独に歩め」
仏教では縁を選ぶ力こそが、智慧ある生き方の基礎だと説いています。
一緒に歩む相手を間違えれば、人生そのものが重く苦しいものになってしまう。それは誰を選んだかだけではなく、”どんな心で選んだか”が深く関わっています。
「人は、害をなす関係を手放す勇気を持たなければ、真の解放に至ることはない」
もし片方がただ利用されるだけであれば、それは依存であり、心の成長を妨げる毒となるのです。
「言葉と行動が一致しない人」は、言葉では家族や友人を大切にすると言いながら、実施には自分の利益を最優先します。「口にする言葉よりも、行動に真実が宿る」。言葉の甘さに騙されると、知らず知らずのうちに心がすり減らされていくのです。言葉は美しくとも、前向きな言葉であろうとも、その言葉を支える行動も、心の姿勢もないなら、「別れ」の選択をしなさい。
「他人を支配しようとする人」は、あなたに無理な要求をして、その要求を断る時に罪悪感を抱かせるような言葉を投げかけてきます。そのような縁はあなたの自由を奪い、心を閉じ込めてしまいます。
「悪しき縁を断つことは勇気のいる決断ですが、その先には必ず新しい縁が生まれます。それはあなたの誠実さを本当に尊重してくれる人々との縁です。そのために、まずは不要な縁を断つことを恐れないでください」
「悪しき縁を放置することは危険です。人間関係において相手の本性に気づきながらも、それを見逃してしまうことで、自分だけでなく、周囲の人々にも大きな影響を及ぼしてしまいます。一方で、悪しき縁を断つことで、自分の美徳を守り、さらに良い縁を引き寄せることが出来るのです」
「悪しき縁を手放すことで、良き縁を迎え入れる空間が生まれる。悪しき縁を断つことは簡単ではありません。しかし、それを乗り越えることで自分の人生に大きな変化をもたらすことが出来ます」
「善き縁を大切にすることで、真の幸福へと近づくことが出来るのです。人間関係は私たちの人生に大きな影響を与えるものです。どのような人と関わるかが、あなたの心や平穏を左右します」
「良い縁を育み、悪縁を手放すことが、心の平穏につながります」
内側に”怒り、焦り、嫉妬、見栄”といった”心の熱”が暴れている人とは、どんなに外見が整っていても、調和のある関係は築けません。
ブッダは「穏やかな心を持つ者と共に歩め」と説いています。
怒りや執着を手放した心を「寂静(じゃくじょう)」と呼び、「落ち着いた心が、人を癒す力」を持つことを意味します。
仏教には、「自灯明」という言葉があります。これは「自分自身を光とせよ」という意味で、自分自身を頼りにすることの大切さを教えています。つまり、他者に頼りすぎたり、他者の意見に振り回されたり、世間の常識に流されるのではなく、自分にとって本当に大切なものは何か、自分はどうしたいのか、自分の心の声に耳を傾け、自分で考え、判断し、行動することが大切だということです。マタイの福音書第7章6節
「聖なるものを犬に与えるな。また真珠を豚の前に投げるな。
彼らはそれを足で踏みつけて、あなたがたを攻撃してくるだろう」※、犬と言えばBitch(ビッチ/雌犬)、豚と言えば欲深く怠惰な人たち。
「我執(がしゅう)と驕慢(きょうまん)は最も心を曇らせる煩悩である」
※我執=自分の欲望を満たすことだけを考える心。
※驕慢=マウントを取る。
「最も深い煩悩として、他者の幸せを喜べない心、他者の不幸を喜ぶ心」(随喜の欠如)
「真実ではない言葉は、話す者の心も、聞く者の心も曇らせる」(お世辞という虚言が、話す人の心を偽りの方に導き、聞く人の心も曇らせる)
「耳に痛い忠言(ちゅうげん)は薬、耳に心地よい讒言(ざんげん)は毒」
(今日はあなたに誉め言葉を並べ、明日はあなたに何かを求める、といった関係は健全ではない)
「自分自身を頼りにし、真理を道しるべとする」
「自分を灯火とし、自分を頼りとしなさい。他者を頼りとしてはならない。真理(法)を灯火とし、真理を頼りにしなさい」「他人に期待するのではなく、自分自身の幸せを考えなさい」
「天上天下唯我独尊(てんじょうてんげゆいがどくそん)」この世界にあなたと同じ人は一人としていない。あなたはかけがえのない存在だ。あなたの繊細さは、あなたらしさの一部です。あなたの感じる世界、考えること、選ぶ生き方――すべてがあなただけの道です。今を生きる、そして心を大切にすること。
疲れた時、苦しみを感じた時は、少し立ち止まって「今ここにいる自分」を優しくしてあげてください。
今日から、何を大切にしますか?
今日、あなたの心を少しでも軽くするために、何が出来ますか?
どんな生き方が、あなたの心を穏やかにし、喜びを感じさせてくれるでしょうか?
あなたがあなたらしく生きるために、まずはひとつ、小さなことから始めてみてください。
繊細な心は、世界を美しく照らす光です。
どうかその光を消さず、大切に守りながら、自分らしい道を歩んでください。仏教には「自分の内なる力を信じ、一歩を踏み出すことで道が開ける」という教えがあります。
人生には、選ばなければならない瞬間が必ず訪れます。進むべき道がいくつも見えるとき、その中でどれが正解か分からずに立ち止まってしまうことがあります。迷いが深ければ深いほど「もし選んだ道が間違っていたら、どうしよう」という恐れが心を支配し、選択を先延ばしにしてしまうものです。このような迷いの中に居るとき、仏教では「選ばないことこそが、最も危険である」と教えます。選択を避け、現状に甘んじてしまうと、時間だけが過ぎ去り、自分が本当に望む未来から遠ざかってしまうからです。そこにあるのは、「選択をしなければ、人生は前に進まない」という真実です。
迷いの中に居るとき、大切なのは「完全な正解を探すこと」ではなく「勇気を持って進むこと」です。一歩を踏み出すことで、例え初めは間違った選択に見えても、その経験が次の道を切り開くきっかけになります。
仏教には、「身体で学び、行動で悟る」という教えがあり、考えるだけでは得られない気づきが行動によってもたらされるとされています。
「許し」とは、仏教では少し違った意味を持ちます。
許しとは、相手の過ちをなかったことにするのではなく、相手の行いを正当化するものでも、相手の罪を軽くするものでもありません。許しは、あなた自身が苦しみから心を自由にするための行為です。相手を直接許さなくても、自分の心をその怒りから解放することです。その因と果を受け入れた上で、前に進むこと。
「慈悲」とは、「慈」相手の幸福を願う心、「悲」相手の苦しみを減らしたいと願う心。(父親に必要なもの)
<執着恋愛と愛の恋愛の違い>
「執着」とは、自分の都合のいいように相手をつなぎ留め、相手を所有しようとする心である。執着恋愛では、自分を相手の理想に当てはめるよう要求される。同性の友人と会うことを制限される。趣味を楽しむと批判される。つまり、彼らの意図は、あなたが楽しむことが許せない。相手を喜ばせるために自分の生活が狭まる一方で、相手は自分の思い通りに振舞うことを優先する。
「愛」とは、相手を大切にし、相手の幸せを願い、相手を自由にしようとする心である。愛とは、相手を縛らず、共に歩むものである。愛とは、相手の幸せを喜ぶもの。
※執着とは、「こうでなければならない」「これを失いたくない」という心の縛りです。この執着が、私たちの行動を制限し、覚悟を妨げる原因になります。
<裏切り>
信頼とは砂の城のように、一度壊れてしまえば、元に戻すには多くの時間と労力を要する。信頼は一度に取り戻せるものではない。だが、努力と真実の心があれば少しずつ回復していくものだ。誠実さは行動によって証明される。言葉ではなく、日々の積み重ねが信頼を築く。
<知識と智慧の違い>
知識とは、事実や情報、理論を理解し、記憶することを指す。
智慧とは、そうした知識を使いこなし、状況や人に応じた正しい判断や行動を導き出す力を指す。
知識が溢れすぎると、かえって視野が狭くなり、正しい行動が出来なくなることさえある。すべてを知り尽くすことを手放す柔軟さが必要。つまり「自分は全てを知ることはできない」と認めることが智慧の第一歩となる。
<知識だけに頼るリスク>
・偏った視点。多くの知識を持つと、逆にそれに固執して新しい視点や考え方を受け入れにくくなる。つまり「知識のバイアス」である。
・正解への固執。知識を得たことで、正解はこれしかないと思い込み、柔軟な対応が出来なくなる。これが人間関係や仕事で摩擦を生む。
・変化への抵抗。知識を持つことで、「この方法しかない」と考え、新しいアプローチや変化を拒む。
<智慧を得るための心構え>
・知識に振り回されない。知識を絶対の正解としてではなく、参考程度に柔軟に捉えることが大切。
・観察と洞察。目の前の状況をありのままに観察し、それに基づいて適切に判断する力が智慧を育てる。
・手放す勇気。すべてを知ろうとする欲望を手放し、未知のものを受け入れることで智慧が生まれる。これを仏教では「空」と言う。
「あなたの知識は、本当にあなたを助けていますか? あなたを縛り付けていませんか?」