昨日「ダリ展」を見に行ってきた。
とんでもなくミーハーな理由から、私はダリの絵が案外好きだ。それは「何だかよく分からないがシュールなのがかっこいい」という、底の浅いものだ(笑)同様の理由でキリコ、マグリットも好きだ。
その「シュールな世界」を楽しもうと赴いたダリ展だったのだが・・・甘かった。ダリの構築する世界は、私の想像を遥かに超えていた。
ダリが変わった絵を描くのは、20世紀初頭にブームになっていた「シュールレアリズム」という概念に興味を持ったからで、実はダリという存在自体、そういった概念を遥かに凌駕した、とてつもなくシュールで過激な、スケールの大きな芸術家だと言うことが分かった。絵を描くだけでなく、家具や服のデザイン、空間プロデュースもやり、映画の脚本も書く。マルチな人だったのだ。しかもその作品の全てが「ダリの世界」で、ダリでしか創り得ないものばかりなのだ。どれもこれも奇抜で毒々しく、それでいて優雅で不思議な美しさがあり、見る者を引き込まずにはいられない。
私は美術評論などはできないので、ダリの作品を言葉にして評することは難しいのだが、一つ言えるのは狂気・不安といったマイナス感情の極みを表現し、それをある種の美しさを持った作品として、その価値を世に問うなんてことは、余程の才能が無いとできない、ということだ。人は優しさとか温かさとか、分かりやすいものに惹きつけられる。マイナスの感情ならせいぜい怒りとか悲しみだろうか。それらのものを鑑賞すれば、出て来るのは大概「きれいだなぁ」とか「素敵だなぁ」とか「可哀想」と言った言葉だろう。 しかしダリの作品に向かい合った時、人々は言葉を失うのではないか。人から言うべき言葉を奪うほどの圧倒的な存在、それがダリの作品であり、ダリ自身だと思う。正直、見終わってから疲れを感じた。
20世紀初頭に生まれ、1989年まで生きていたダリは、写真がたくさん残っている。一見美男子、だがいつも「自分の世界に没頭した」どこか思いつめた表情をしている。彼にとって現実の世界は大して重要ではなく、自分の頭で考える、芸術世界が本当に生きるべき場所だったのだろうか。ダリの生涯のパートナーとなったのは、ガラというかなり年上の既婚女性だ。この、桂米朝似の女性が、ダリにとっての心の支えであり、最高の理解者だったことは、ダリの作品や写真に彼女が何度も登場することからも窺える。
ダリのような人は一歩間違えば狂人だろう。天才と狂人は紙一重だと言うが、正に紙一枚で天才の側にいる人だと思う。もし、彼の芸術を理解する人が周りにいなかったら・・・彼の人生はまったく違ったものになっていたかも知れない。才能に恵まれ、理解者に恵まれ、「時代」に恵まれ、初めてダリはダリたり得た。平凡な人生など似合わない人間が、その非凡さを十分に発揮できたのは、持って生まれた強運もあったのかも知れない。
考えてみれば「危うい」人生かも知れない。普通に結婚し、家族を守って働き、老いて行く人生とは対極にあると言える。ダリのように風に生きられる人はいくらもいないだろう。でも、そういう人生もあるのだ。