>--映画「南京」の制作意図は
レオンシス氏「ヒーローの物語としてつくった。それは違う背景でも語られうるが、今回、私が選んだのが南京だったということだ。ただし、南京事件が世界的にはほとんど知られていない問題であるということが、制作の理由でもある」
南京事件自体が共産支那のプロパガンダだから、世界的にしられていないのは当然である。こいつら共産支那の工作員だろう。かなりの額の支援金を受領していると思われる。
ま、便衣兵を処刑したことはあるだろうけどな。
後半に参考資料を添付する。
プロデューサーのテッド・レオンシス氏(撮影・松尾理也)
監督のビル・グッテンターグ氏(撮影・松尾理也)
【ソルトレークシティー(米ユタ州)=松尾理也】1937年12月の「南京事件」をテーマにした米ドキュメンタリー映画「南京」が、ユタ州パークシティーで開催中のサンダンス映画祭で初公開された。同映画の制作陣は産経新聞と会見し、「反戦映画ではあるが、反日映画ではない」と述べる一方、中国の国営テレビ局との共同制作の形をとっていることなど、中国との密接なかかわりも認めた。
「南京」は、当時南京に滞在していた欧米人の証言、事件で生き残った中国人へのインタビュー、旧日本軍兵士へのインタビューの三つの角度から事件を描く構成になっている。
このうち、中国側のインタビュー部分には、生存者が出演し、涙をながしたり、傷跡を示したりしながら、日本の残虐性を訴える。
一方、旧日本軍兵士の部分の多くには、日本国内の平和活動家によって収録されていた過去のインタビュー映像を使用。一部には、文脈は不明ながらも、笑いながら虐殺を語る映像なども挿入され、中国側との対比が強調されている。
制作指揮はインターネット接続大手AOLの元副会長、テッド・レオンシス氏がとり、監督は、アカデミー賞短編ドキュメンタリー賞を2度受賞したビル・グッテンターグ氏が務めた。
レオンシス氏らによると、同作品は、中国中央テレビ(CCTV)の協力を受けて制作され、今後同テレビでの放送が予定されている。日本での公開は未定だが、同氏らは「広範な取材、調査に基づき、正確な内容を期した。多くの日本の人々にも見てもらいたい。政治的な意図はない」と話している。
サンダンス映画祭は全米最大規模の独立系映画祭として知られる。今年のドキュメンタリー部門には856の応募から「南京」を含む16本が選ばれ、上映されている。
◇
■語ろうとしたのは歴史の一つの側面
プロデューサーのテッド・レオンシス氏、監督のビル・グッテンターグ氏との一問一答
--映画「南京」の制作意図は
レオンシス氏「ヒーローの物語としてつくった。それは違う背景でも語られうるが、今回、私が選んだのが南京だったということだ。ただし、南京事件が世界的にはほとんど知られていない問題であるということが、制作の理由でもある」
--事件をめぐっては、さまざまな論争がある
グッテンターグ氏「この主題についてこのストーリーしかないと主張するつもりはない」
レ氏「犠牲者数についても、激しい論争があるのは承知している。そこで、私たちは東京裁判での数字を引用することにした。もっと少ないという意見はあるだろう。では、少なければ問題ないのか?というのが私の意見だ。数の多寡は問題ではない」
--反日映画ではないと強調しているが、日本に肯定的な部分はほとんど感じられない
グ氏「語ろうとしたのは、歴史の一つの側面だ。いろいろ取材はしたが、結局、当時現場にいた人々についての映画にすることにした」
--旧日本軍兵士が笑いながら虐殺を語る記録的なシーンが会場でも波紋を呼んでいたが、ああした映像は意図的に選んだものか
グ氏「70年も前の出来事を語る際には、入手できた記録フィルムが最良の映像として、よしとしなければならない場合もある。元兵士が笑っていようがいまいが、そこに何らかの含みを持たせる意図はなかった」
--日本では石原慎太郎・東京都知事らにも取材を行ったそうだが、そうした保守派の意見はまったく反映されていない
グ氏「その部分が映画に含まれていないことは遺憾に思う。しかし、私は同様に、他にも取材しながら映画からそぎ落とした多くの部分についても遺憾に思っている」
--故アイリス・チャン氏の「レイプ・オブ・南京」にはどれほどの影響を受けているのか
レ氏「チャン氏の死亡記事をみたことが制作のきっかけになったのは事実だが、同書については史実的に不正確な記述が多いと聞いている。この映画は同書に基づいて作られたものではない」
(2007/01/26 09:08)
http://www.sankei.co.jp/kokusai/usa/070126/usa070126000.htm
参考資料
渡部 昇一 上智大教授の見解
http://www8.ocn.ne.jp/~senden97/nankinjiken1.html
・東京裁判が作った大量虐殺「南京事件」は絶対にありえない!
1.30万人大虐殺という数字はありえない。
2.当時蒋介石政府側から何の提訴もされていないのはなぜか?
3.南京攻略当時、現地に入った百人以上の従軍カメラマン・記者・文化人たちがひとりも「大虐殺事件」を報告していないのはなぜか?
南京はだいたい東京の世田谷区くらいの大きさで、当時駐在していた外人記者の記録では約15万人、一番多く見積もった記事で25万人、そのうち蒋介石軍が3万から5万人の間で、民間人を合わせて20万人前後というのが妥当な数字である。
日本軍が銃と銃剣だけでどうやって南京の全人口を虐殺できるのか。これは原爆2個くらいでも落とさない限り不可能である。30万人虐殺説はこれはもう、完璧に捏造としか言いようがない。南京城内に30万人も住んでいない。どうやっても証明できるはずがない。さらに陥落直後の人口は約20万人。1ヶ月後は25万人に増えていることが確認されている。陥落直後の人口約20万人から虐殺されたといわれる人口30万人を引くと、マイナス約5万人となる。大虐殺はありえない。(以下略)
日本は既に国際連盟を脱退していたが、蒋介石政府は日本軍の戦闘行為について細かくあげつらって報告している。内容は、南京空襲で民家を誤爆された、毒ガスを使用された(本当は催涙ガス)とか、その類のものばかり。肝心の南京虐殺は提訴した記録がない。
当時の南京は上海のように国際都市でしたから、各国のジャーナリストたちが大勢いた。それなのに、当時、日本に対して反日的な国々からも正式の抗議はない。南京陥落当時、日本人の取材人も大挙して訪れている。120人もの記者とカメラマンに加えて、大宅壮一、西条八十、草野心平、林芙美子、石川達三といった錚々たる文化人たちも現地にいた。従軍記者、従軍カメラマンは常に前線にいてその部隊の戦況をつぶさに見て報告するのが、義務であり使命である。もし南京占領後、言われているような虐殺があったら120人以上の記者、カメラマン、視察団員たちの目に入らないはずがない。しかるに東京裁判で提訴されるまで、ただのひとりとしてそのような光景を見たと報告した人はいないのである。又一枚の写真も出ていない。従軍記者は全てのメモを紛失した?従軍カメラマンはすべてのフイルムを焼失した?名のある作家や評論家、詩人らはおぞましい日本軍の虐殺行為を知りながら、全員口をぬぐってきたのだろうか?そんたはずはありません。なぜなら、いわゆる南京虐殺はなかったからである。
執拗に”あった”、と言い立てるのは”ナチスの犯罪に相当するものが東京裁判に欲しかった”からです。犠牲者の数は今ではかなり正確に出せると言われているが、あらゆるところに妨害があって未だにあいまい論争のままにしている。もし数が明らかになったら戦勝国は困るからである。東京裁判がまず”集団リンチ”で”裁判に値しない”ことが、愚かな者でも解かるだろうし、民間人の殺戮を意図した東京空襲はじめ60余都市への無差別爆撃や広島・長崎原爆投下という”アメリカの大犯罪”こそクローズアップされてしまうからである。実際問題アメリカは”ひどいことを日本にした”のだ。「30万虐殺という大犯罪をでっちあげないことには、自分たちの犯した罪の意識からのがれられないのだ」。”アメリカはやりすぎた。ひどいことを日本に対してした”と本心では思っている。自らの罪の意識から”30万人の大虐殺”というのをでっちあげて”精神のバランス”を保っているのである。アメリカを追求するしないは置いといて、日本が”自責の念に駆られる”などもってのほかである。
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・マギー牧師は南京の国際委員会メンバーであったので、日本軍の占領を監視する必要から市内のどこでも通行することができた。その人物が実施に目撃した「殺人」がたった一件であり、しかもそれが犯罪とはとうてい言えないものであることを知ったとき、私は南京虐殺がまったくのウソであることを確信した。三十万もの「市民虐殺」があったはずはない。その確信は歳を追うごとに強まる一方である。
・日本人がナチスと同じ大虐殺者であり、人種差別主義者であるというイメージがユダヤ人の間に定着することは、絶対に避けなければならない。
・1927(昭和2)年に起こった南京事件(シナの国民革命軍が日本など各国の領事館その他を襲撃し、略奪・暴行・殺人を働いた事件)でも、裏で糸を引いていたのはソ連から派遣されていたポロジンという革命家であった。国民党の政治顧問をしていたポロジンが、コミュンテルンからの指示にもとづいて南京事件をひきおこしたことは当時から周知の事実である。
根拠なき南京市民虐殺説
亜細亜大学教授 東中野 修道 氏
(この文章は、「史」22号・平成十二年七月号に掲載されたものを転載したものです)
昨年十月、産経新聞連載の「中学社会科教科書の通信簿8」において私は南京事件に関する教科書の記述を「1」と評価した。この評価に対して反論があった。それが子どもと教科書全国ネット21編『教科書攻撃のウソを斬る一「新しい歴史教科書をつくる会」がねらうもの』(青木書店)の中の「歴史の真実を消すことはできないー『南京事件』で、反論者は私が検証の際に用いた論拠を「すべて学問的に反証され、すでに破綻した、使い古しの史料」だと言う。本当に、「反証され、すでに破綻してしまった」論拠であったのか。反論のあった四点について再度検証してみたい。
●雇溝橋事件
日中戦争の前奏となった盧溝橋事件について、反論者(氏名不詳)は日本側が「一方的に攻撃命令を下してしまった」から、「その責は日本側が負わねばならない」と言い、そもそも事件の遠因は日本軍が「中国の地」にいて「夜間演習」を行っていたことにあったと言う。
当時、自国民保護のため北京に駐留していたのは、日本のみならず、米、英、仏、伊の軍隊であった。これは義和団事件の最終議定書に基づく五ヶ国の権利であり、外国軍隊は実弾射撃を伴わない限り通告の義務なしに演習できた。しかし日本軍は当地の宋哲元の第29軍の誤解を招かないよう「好意的に通報」(寺平忠輔『盧溝橋事件』50頁)していた。
日本軍の使用していた弾は空包(空砲)であった。鉄帽も食糧も、日本軍は「何一つ用意しておらず」(荒木和夫『盧溝橋の一発」80頁)という状態であった。そこで当時の事実の経過を時系列的に並べてみよう。
[7月7日]
22時40分、支那軍一度目の実弾攻撃。
2度目の支那軍実弾攻撃。
23時頃、行方不明となっていた志村二等兵帰隊。
[7月8日]
午前2時、志村二等兵帰隊の事実を宛平県長に通告。
午前3時25分、3度目の支那軍実弾攻撃。
午前5時半、4度目の支那軍実弾攻撃。日本軍、この時初めて応戦。
このように、日本軍は「第二、第三の挑戦」にも隠認自重し、事件不拡大方針を堅持」(荒木96頁)し、日本軍の応戦までに約7時間もの時間が経過していた。国民党の第29軍こそが挑発したのであって、事件の責めは第29軍が負わねばならない。
●虐殺体の数
虐殺の数は教科書によって、数十万、二十万、十万とまちまちであった。そこで問題になるのが陥落前の人口である。被虐殺者数以上の人口がなければならないからである。
反論者は1937年11月、南京市が国民政府に送った書簡には人口50万と記されている」という。そこで、その「書簡」を『南京人虐殺否定論13のウソ』(86頁)から引用する。
「調査によれば本市[南京城区]の現在の人口は約50余万である。将来は、およそ20万人と予想される難民のために食料送付が必要である(中国抗日戦争史学会編『南京大虐殺」北京出版社、1997年、512頁)」
たしかに「現在の人口は約50余万」とある。ところが反論者は次の二点を見落としていた。
第1に、この書簡の日付11月23日である。東亜同文会編『新支那現勢要覧』(昭和12年、760頁)によれば、南京の国民政府が南京放棄を決定したのが11月16日で、中華民国の政府機関は即日3日以内(18日まで)に撤退準備完了せよと命令された。ラーベ日記も記すように20日には新聞に遷都が公表された。かかる状況下、しかも多くの市民が南京脱出中の大混乱の最中、人口にかんする「調査」が可能であったか。又、その必要性があったであろうか。
第二に、首都移転発表のもたらす影響である。これは南京陥落不可避の発表であり、それに続く古来からの三光作戦「堅壁清野」(『後漢紀』巻四)の始まりを意味していた。12月8日『ニューヨーク・タイムズ』が報ずるように、支那軍が南京全市を「焼き払う」という噂は、当局の懸命の否定にもかかわらず、人々の間に蔓延していた。
つまり首都移転発表が、市民大脱出の引き金となり、城内や場外の市民は12月8日全城門が閉鎖されるまで脱出に懸命となった。南京は、城内も、特に城外が、戦場になると予想されており、戦場に居残る物好きはいなかった。人口の急激な減少が始まったのである。
リリー.アベック「フランクフルタア・ツァイトゥンク」紙特派員は「先週およそ20万の人々が南京を去った。かつての百万都市南京は、既にそれまでに35万人に減少していたから、今ではせいぜい15万人だ」と11月下旬に記録していた。
従って、私が傍点をふった「将来は20万人と予想される」という部分は、「11月23日現在50万」の人口が陥落時には「20万」に急減すると予想されるという意味なのである。
そうではない、11月23日に50万人いたと主張し、陥落時も50万人いたと主張するためには、23日から全城門閉鎖までの15日間、誰も南京から脱出しなかったと言わねぱならない。
※
陥落5日前、全城門が閉ざされ、南京防衛軍司令官唐生智は城内の全市民にたいして安全地帯に避難するように命じた。こうして安全地帯は「寿司詰め」となった。安全地帯の外は、ラーベやティンパーリや日本軍が記すように、「無人地帯」となった。つまり、安全地帯の人口が陥落直前の南京の人口と言ってよかった。
では陥落直前の人口と陥落後の人口はどうであったのか。陥落半月前11月28日、「ここ南京には未だ20万人が住んでいる」(ラーベ日記69頁)と王固磐警察庁々長が発表していた。陥落後、5日目のこと、国際委員会の9号文書(P17)は食料不足のため「20万人市民の多くを如何に餓死から守るか困難だ」と記していた。陥落10日後の24日から住民登録が開始され、ラーベ委員長は12月27日付けの26号文書に「20万人市民」と明記し、署名していた。
つまり「将来は20万」という予測が、陥落後も、多くの人に追認されていた。大量殺害が生じれば人口は当然減る。ところが陥落直前の人口と、陥落後の人口に、変動はなかったのである。
次に虐殺の数を示すためには、埋葬された死体の数を検証しなくてはならない。反論者は中華民国が東京裁判に提出した数に固執する。それは崇善堂も埋葬したという約11万2千体も含めて全体で埋葬数約26万と主張していた。しかし、その埋葬記録の信愚性は全くなかった。
今から4年前の平成8年(1998年)に、私は「歴史の研究か歴史の歪曲か南京大虐殺論の陥穿(VS笠原十九司)」を(『近現代史の授業改革4』に発表したが、その骨子は、今になっても全く反論されていない。そこでも指摘したように、重労働の埋葬作業はボランティアではなく、金になるビジネスであった。仕事量に応じた賃金を、日本軍特務機関と南京安全地帯国際委員会が支払っていた。賃金を支払う関係上、日本軍特務機関も国際委員会も簡単な埋葬記録を残していた。ではどのように記録されていたか。
埋葬作業が南京で始まった時、当地(南京)で当事者(ベイツ委員長)の手になる記録「南京における救済状況」(一等史料)は、南京の救済活動が「すべて」国際委員会のもとで展開されていると言い、紅卍字会のみを埋葬団体として挙げていた。
また後の1939年(昭和14年)に当事者(ベイツ委員長)の手で作成された『南京救済国際委員会報告書』(二等史料)は、南京の埋葬は紅卍字会の手で全て「完了」したと報告していた。
さらに大正元年創刊のThe China Year Book(三等史料)も、当事者の記録を基に、「紅卍字会は二つの無料食堂を維持し、死体dead bodiesを埋葬する上で貴重な援助を行った」と南京の救済活動を記録していた。
日本軍特務機関も南京の埋葬は紅卍字会のみに委託したとしている。このように各種の記録を突き合わせても埋葬団体は紅卍字会のみという点で一致している。反論者が信愚性を「高く評価」するという崇善堂は、当時、休業中であった。しかも埋葬は活動範囲「外」であった。
同じように埋葬期間についても当時の記録を突き合わせると「実働約40日」という点で一致している。従って拙著『「南京虐殺」の徹底検証』に記したように埋葬体は多く見積もっても一万四千体にしかならない。反論者は、埋葬団体、実働日数、埋葬量などの検証を怠っているのである。
●市民虐殺
私は市民虐殺はなかったと次のように述べた。
貧しい市民は南京に残って安全地帯に避難し、広さ約四キロ平米という狭い場所に人口20万人が集結した。人口密度は二十平米に一人、縦五米、横四米の土地に一人いた勘定になる。
このような混雑の中、連続40日間に及ぶ毎日7千人殺毅の大虐殺があったのであれば、目撃者がいて、欧米人16人の構成する国際委員会に親兄弟、隣人、友人が、直ぐ通報して、欧米人も駆けつけていたはずである。ところが欧米人の訴えの内容はほとんどが伝聞であった。その訴えを聞いた欧米人はほとんど見にも行っていない。それをまとめた中華民国の政府機関と目される国際問題委員会修・徐淑希編『南京安全地帯の記録』(1939年5月)を見ても、殺人の記録は26件、うち目撃は2件に過ぎなかった。そのうちの1件は「合法的処刑」であった。残る1件が後述のマギーの記録であった。
当時の公式記録には殺人26件としか記録されていなかった。にもかかわらず、反論者は安全地帯における無差別殺戮を主張し、その証拠として次の二つの証言をあげる。
第一に、「東京裁判史料に載っているジョン・マギー牧師ら安全区国際委員の目撃したことをふくめた貴重な証言」であった。この証言は洞富雄編『日中戦争南京残虐事件資料集』第一巻89頁に出てくる。しかし、東京裁判でマギーは実際何件の殺人を目撃したのかと問い詰められた時、「僅力一人ノ事件ダケ」(103頁)であったと、次のように証言した。「其ノ次ノ日(注、12月17日)ノ出来事デアリマスガ、私ハ他ノ3人ノ外国人、其ノ外国人ノ2人ハ『ロシア』人、1人ハ私ノ同僚ノ『フォスター(Ernst H Forster)』サンデアリマシタガ、私共是ダケノ外国人ハ家ノ『バルコニー』カラ外ヲ見マシテ、実際中国人ガ1人殺サレルノヲ目撃シタノデアリマス」(89頁、注記は筆者)
1人の支那人が通りを歩いていたところ、日本軍が後ろから誰何したため、彼は驚いて逃げ去ろうと走り、竹垣のある道を曲がったが、その先は行き詰りであった。そこへ追いついて来た日本兵が「此ノ支那人ノ顔二向ケテ発砲シテ殺シタ」そうである。
しかし、証言にたいしては裏づけが必要不可欠である。この証言の裏づけとなるマギーの当時の日記(12月19日)と比較検証してみよう。
「ちょうど1昨旦注、12月17日)も、私たちの住んでいる家の直ぐ近くで、私はかわいそうにも1人の男が殺されるのを見た。実に多くの支那人は臆病で、誰何されると、愚かにも逃げ出す。その男に起きたのもこれだった。私たちの目に入る竹垣の角を、ちょうど曲がったところで、その殺害が生じたとき、その実際の殺害を私たちは見ていなかった。あとでコーラがそこに行って、その男は頭を二発撃たれていたと語った」(傍点筆者。マーサ・スモーリィ編『アメリカ人宣教師の目撃した南京大虐殺1937~1938』P23)
第二に、反論者は、無差別殺戮の証拠として、南京安全地帯国際委員会委員長のラーベの日記を挙げ、安全地帯における日本軍の虐殺を証言した画期的なもの」と述べている。
しかしラーベ日記のどこにも無差別殺戮場面を目撃したとは記されていない。反論者はその箇所を提示すべきであった。その提示がないので、私がラーベの日記からそのような感じのする唯一の箇所を挙げてみると、12月13日南京陥落の当日ラーベは「上海路へと曲がると、そこにもたくさんの死体がころがっていた」(108頁)と記している。
あたかも日本軍が殺したかのような思わせ振りであったが・ラーベの見た死体は戦死体なのか、虐殺体なのか、それとも支那兵の手になるものか、日本軍の殺害したものか、不明であった。
そこで、この記述と同じような記述を当時の記録に探してみた。南京防衛軍の軍医であったという蒋公毅の「陥京三月記」(『南京戦史資料集-六三〇頁」)は、12月12日、「上海路では雑踏の足音にまじって争い、刃をふるう声が聞こえた。近くの小道からは時折り、鋭い助けを呼ぶ声が聞こえた。これはひと握りの獣のような裏切り者が混乱に乗じて通行人に害をなすものであった」と記している。
上海路という限定された場所の死体から考えると、これはラーベがその翌日見たという死体と同じであったであろう。そうなると日本軍の殺害ではなかったことになる。事件発生当時、事件発生場所で、関係者の記した虐殺目撃の記録(一等資料)がない限り・市民虐殺があったとは到底言えないのである。
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