http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/politics/diplomacy/32020/
先日、森本敏氏(拓殖大学教授)は時局心話会の講演で「中国は日本に異常なほど気を使っている。靖国問題は逆転し、いまや靖国は日本側のカードになった」と述べた。もし日中関係がニッチもサッチもいかなくなったら、安倍晋三首相はひとこと「それなら靖国へ参拝しますよ」といえばよいというのだ。森本氏の見方に同感である。首相の靖国参拝でうろたえ真っ青になるのは北京政権と、形勢は劇的に変化したのである。
【見事なアイマイ作戦】
周知のように中国は現在、朝野(ちょうや)を問わず靖国の「や」の字も口にしなくなった。不謹慎ながら思わず笑い出したくなるほどの様変わりである。靖国へ参拝するか、したか、一切公言しないという安倍首相のアイマイ作戦。日本の苦渋の選択と思った人もいたかもしれないが、私は余裕たっぷりの戦略とみた。思いついたのは安倍さん本人か、それともブレーンか。だれかは知らないけれど、相手の急所を突いた見事な作戦だった。これで中国は救われたけれど、弱みをがっちりと日本に握られてしまった。
そもそも靖国問題は最初から中国の政争の具であり、日本はそれに巻き込まれたにすぎない。親中国のお先棒かつぎに掻(か)きまわされて、ずいぶん無駄なエネルギーをついやしてしまった。かれらは胡錦濤主席にとって靖国が鬼門であることを知らなかったのだろうか。
【胡耀邦失脚の背景】
胡主席が今日あるのは、1989年に死去した胡耀邦のおかげである。『胡錦濤』(楊中美著・青木まさこ訳、NHK出版)によれば、胡主席がまだ中堅幹部の頃、中央党校で研修を受けたとき、胡耀邦の息子の胡徳平氏と同じクラスであったという。これが契機となって胡主席は胡耀邦の信頼を得て、出世の糸口となる共産主義青年連盟のトップに抜擢(ばってき)されたのであった。
横道にそれるが、最近、胡徳平氏に関する情報が香港から伝わってきた。胡氏は現在党統一戦線部副部長で、全国政治協商会議副主席に就任する可能性が高まっているという。父親は学生デモに甘かったと●(=登におおざと)小平から睨(にら)まれ、87年に総書記を解任された。しかしいまでは再評価され、息子もまた浮上してきた。胡錦濤時代が安定期にはいったということだろう。
それはさておき、胡耀邦は親日家で対日外交をもっとも重視した。83(昭和58)年に来日し大フィーバーを巻き起こした。時の中曽根康弘首相とは個人的にも親しく、日中関係は他国もうらやむほどであった。杉本信行著『大地の咆哮(ほうこう)--元上海総領事が見た中国』(PHP研究所)につぎのような記述がある。
「強烈に脳裏に焼きついているのは、胡耀邦が鹿取泰衛大使の招きを受けて大使公邸を訪ねてきたことで、これは前代未聞の出来事であった。その返礼として、中南海の胡耀邦総書記の執務室に大使館員全員が招かれた。バイキング形式の豪華な食事が用意されて、当時北京では食べられないような日本料理まで揃(そろ)えてあった」
84年、日本人青年3000人が中国に招待された。『大地の咆哮』によれば、これは胡耀邦の独断であり、日本人青年たちは建国35周年の記念パレードがおこなわれた天安門の両脇の観覧席を占拠したという。これは胡耀邦失脚の原因のひとつといわれているが、そのときの日本人接待の責任者は41歳の胡主席だった。
胡耀邦の親日ぶりを苦々しく思っている老幹部は少なくなかった。長老たちは胡耀邦が進める幹部の若返り化に反発していた。その不満が過剰な日本びいきへの批判となって噴出した。それを目の当たりにして「日本に深入りするのは危険だ」と、当時の胡主席は思ったはずだ。
【胡主席のトラウマ】
85年、中曽根首相は8月15日の靖国公式参拝にむけて準備を進めていた。国内では憲法にからめた論議が活発に展開されていた。8月14日、中国外務省スポークスマンが中曽根内閣の公式参拝はアジア人民を傷つけると言明した。意外かもしれないが、中国が靖国を問題にしたのはこれが最初だった。
同年8月15日、中曽根首相、公式参拝。反胡耀邦派は、日本に甘すぎるから、中曽根参拝になったとゆさぶりをかけた。胡耀邦は追いつめられた。翌年夏、中曽根首相は胡耀邦の立場を考えて公式参拝を断念した。私は、中曽根元首相にインタビューした際、直接そのことを聞いたことがある。
このとき身近にいた胡主席には、胡耀邦総書記は日本と靖国に翻弄(ほんろう)されたという思いが強くあったにちがいない。靖国問題がトラウマとなって尾を引くことになった。故人となった杉本氏もつぎのように指摘している。
「胡錦濤主席にとって、この問題は自分の恩人の失脚に直接絡んでいること、さらに、ゲンを担ぐ中国人にとり、姓名が同じ『胡』であることもあって、心理的に重荷になっているものと思われる」(『大地の咆哮』)。したたかな中国のこと。これでへこたれることはあるまい。靖国カードのつぎに、こんどは何を持ち出してくるのだろう。
(大島信三)
