いつも、いつも同じ電車に乗って稽古に向かう時、同じ車両に紳士服を着ている、老人を毎日見かける。
向こうもこちらに気付いている様で、俺とその老人は新宿に着くまで、短い間だけの奇妙な顔馴染みになった。
そんなある日、その老紳士は「隣、空いていますか?」と聞いてきた。
「勿論です。どうぞ。・・・いつも、同じ電車ですね」
俺が笑いながら言うと、その老紳士は「そうですね」と実に和やかな笑顔で答えてくれた。
その事がきっかけで俺とその老紳士は新宿までの短い間の顔馴染みから友人へと変わった。
俺は毎日色んな話しをしてもらった。
毎日、毎日顔を見ては口うるさく体の事を心配する娘。
散歩をしていると必ず会うたくさんの犬を連れて歩いている女の子。
たまに見る若い頃の夢ー
そんな話しの中で俺が一番好きなのが奥さんとの恋の話し。
好きな理由は2つある。1つは奥さんと初めて出会ったのはこの昔から走っている同じ電車だったそうだ。
毎日同じ電車、同じ車両に乗っていたら、不思議と顔馴染みになったらしい。
丁度今のこの感じなのだろうと聞いた時は少し笑ってしまった。
流れる景色を見ながら1つ1つ思い出す様に話す老紳士の顔は実に幸せそうだった。
そう、もう1つはこの思い出を話す時の老紳士の幸せそうな顔が好きだったのだ。
老紳士と話をするようになって、しばらく経ったある日。いつもの様に話していると、電車にある広告に目が止まった。
「いま乗っている電車とお別れして、全線生まれ変わります」
いつもなら「キレイになるならいいか・・・」と思う所なのだろうが、今はとてもそんな気にはなれなかった。
この電車は老紳士の思い出が沢山詰まっている電車だからだ。
話している途中でいきなり黙ってしまった俺を見て、老紳士もその広告に気付いた様だ。
しかし、老紳士は笑顔で言った。「私はこの電車に沢山の思い出を頂きました。いや、私としもこの電車が引退してしまうのは悲しいですよ。ですが、何時までも思い出を引きずってしまうのはいけない。この電車は生まれ変わってまた新しい思い出を乗せていくのです」と・・・
そして続けて「最後にあなたに会えてよかった」と言った。
そんな大袈裟な・・・と思いつつ俺は曖昧な笑顔を老紳士に返したのだった。
数日後、電車のお別れセレモニーが行われた。俺は稽古は無かったが、駅に向かった。
実はあの日以来、老紳士に会うことが無かったからだ。だからセレモニーに行けばきっと会えると思っていた。
しかし、駅のどこも見回しても老紳士はいなかった。
その間セレモニーは進み、恐らく、この日だけ用意されたのだろうスクリーンには引退する電車の過去から現在に至るまでの歴史を流し始めた。
その時だった。
俺はあの笑顔が隣にある事に気付いた。
車椅子に乗っているお婆さんの持っている写真の中に。
このお婆さんが誰であるかはすぐに分かった。
何故ならスクリーンに流れる映像を見ている顔が、あの時、思い出を1つ1つ思い出しながら話すあの老紳士の顔と同じだったからだ。
あの老紳士が恋をし、結婚した相手、それがこの人だろう。
「お母さん、懐かしい?」
車椅子の後ろにいた女性はきっとあの人が話していた娘さんだ。その人はお婆さんに顔を近づけるとこう言った。するとお婆さんはとても優しい笑顔で、
「ええ、あの人との思い出が流れていくよう・・・」と言った。
「そう・・・」と言うと娘さんは後ろを向き静かに泣いていた。
やがて、電車の汽笛が鳴るとそこに集まっていた人がお別れだと言わんばかりに手を振った。
しかし、きっとこのお婆さんには分かるだろう。この汽笛はお別れではなく、あの老紳士の「ありがとう」と言っているのだと・・・
最後にお婆さんがぽつりと呟いた。
「いままで本当にありがとう」
その後、電車は新しく生まれ変わり、また変わらない車両に乗って稽古に行く日々が始まった。
あの老紳士がいなくなった事を除けば・・・
また、今日も汽笛が鳴る何処までも広く、深い秋空に向かって・・・・・
演出の短編小説