🟦 導入|「何者かにならなきゃ」と思って疲れているあなたへ
SNSを見ていると、胸がざわつくことがあります。
同年代の人が「月収◯◯万円達成」「セミナー満席」「出版決定」…
まるで世界が、自分以外すべて順調に回っているような気さえしてくる。
そんな投稿を見ては、
心のどこかで「自分も、何者かにならなきゃ」と焦る。
でもその“何者か”って、誰のため?
なぜ僕らは、今の自分では“足りない”と感じてしまうのだろう?
私自身もずっと、「もっと別の自分になれるはずだ」と思い続けていました。
・今の仕事は仮の姿だ
・もっとクリエイティブな人生があるはずだ
・このまま終わってたまるか
そうやって、たくさんのことに手を出しては、
気づくとまた現実に引き戻され、
何も変わっていない自分に絶望する…
そんな時期を何度もくぐってきました。
「変わらなきゃ」
「結果を出さなきゃ」
「認められなきゃ」
そんな“圧”のような思いが、やがて自分を追い詰めていきました。
この記事は、そんな“焦り”と“空虚さ”の間で揺れているあなたに向けて、
過去の自分の体験も交えながら、
「本当の“変わる”って何だろう?」という問いを、一緒に見つめていくために書いています。
自分の過去体験|焦りと承認欲求のはざまで
僕が「何者かになりたい」と強く思い始めたのは、
おそらく40代を過ぎた頃だったと思います。
小売の現場で働き続け、29年。
ひたすら目の前の仕事に向き合い、誠実にこなしてきたつもりでした。
でも、そこに「評価」や「報酬」が伴うことは少なく、
どちらかといえば、“都合よく使われる人”になっていた。
誰かのミスの尻拭い、
急なシフト変更、
クレーム対応、
上司の意向に沿うだけの会議。
「頼りにされてる」ようでいて、
実は「便利に扱われている」だけじゃないか?と気づくたび、
自分がどんどん“透明な存在”になっていく感覚がありました。
そんなある日、SNSで偶然目にしたのが、
“普通の主婦だった私が、月収100万円達成!”
という、キラキラした投稿。
正直、信じられませんでした。
でも同時に、強烈な敗北感が押し寄せたのです。
「このまま、現場で終わっていいのか」
「自分にだって、何かもっとできることがあるはず」
「ここじゃない、どこかへ行きたい」
気づけば、ネットビジネス・副業・セミナー・教材…
次々と手を出しては、時間とお金を使い、
そのたびに、現実は何も変わらず、
“自分のダメさ”だけが際立っていく。
あのときの僕は、“何者かになりたい”というよりも、
“今の自分じゃいたくない”という気持ちに
支配されていたのだと思います。
でも今になって振り返ると、
そこにあったのは、「承認されたい」という
ただの純粋な欲求でした。
誰かに「すごいね」と言ってほしかった。
「あなたには価値がある」と言ってほしかった。
でも、それを誰かに求めれば求めるほど、
自分の中の軸はどんどん薄れていく──
そんなことに、当時の僕は気づいていませんでした。
“何者かにならなきゃ”という構造の正体
“何者かにならなきゃいけない”──
この焦りは、一見ポジティブな向上心のように見えます。
でも実際は、そう思わせる「構造」に、僕らは包囲されているだけなのかもしれません。
たとえばSNS。
誰かの成果、誰かの笑顔、誰かの成功体験が
まるで「日常」かのようにタイムラインに流れてくる。
それを見続けていると、
「何かしていない自分は、ダメなんじゃないか」
「すごい人にならないと、生きている意味がないんじゃないか」
そんなふうに、“見えない欠乏感”が染み込んでくるんです。
さらに、現代の社会は“成果主義”がベースになっています。
どれだけ努力しても、
「結果が出なければ意味がない」という空気。
上司も、クライアントも、社会全体も──
“数字”と“実績”ばかりを見て評価する。
でも、本当にそうでしょうか?
・人に優しくすること
・責任を持って仕事に向き合うこと
・表には出ないけれど、陰で支え続けていること
こういった「目に見えにくい価値」は、
どこで評価されるのでしょうか。
“何者か”という言葉が意味するのは、
「目立つ人」「成果のある人」「発信している人」であることが多い。
でもその基準自体が、
“フォロワー数”や“収入”といった、
表面的な指標にすり替えられていないか──?
これは、資本主義の構造そのものに埋め込まれた「演出」です。
「何者かでなければならない」
「結果を出せない人間は、静かにしてろ」
「誠実なだけでは食っていけない」
こうした思想が、静かに僕たちを疲弊させている。
それに気づかないまま走り続けると、
“なりたい自分”ではなく、
“演じる自分”ばかりが増えていくんです。
気づけば、自分の声が聞こえなくなっていた──
そんな人は、僕だけではないはずです。
思考の転機|“足す”より、“削る”という選択
ある日、ふと自分に問いかけました。
「もし、このまま“何者にもなれない”としても、生きていけるか?」
そのとき、答えはNOでした。
心のどこかで、「誰かに認められないと、自分の存在は成立しない」──
そんな感覚に縛られていたことに、気づいてしまったのです。
でも、同時に気づいたこともありました。
それは、“何者かになりたい”という思いが、
他者からの承認を求めていただけだとしたら、
それは自分の人生の主導権を、他人に預けていることと同じだ、ということ。
そこから、僕の思考はゆっくりと、でも確実に変わっていきました。
焦って何かを「足す」のではなく、
自分を苦しめていた「不要な思い込み」を削ることに集中するようになったんです。
たとえば、こんな価値観を手放しました
-
「成果が出ていないと発信してはいけない」
-
「人からすごいと思われなければ意味がない」
-
「他人に追いつけなければ、自分は劣っている」
削ってみると分かります。
肩の力が抜け、目の前の日常が、少しずつ穏やかに見えてくる。
「何者かになろう」として疲れていた僕は、
少しずつ「誰でもない自分」として生きる自由を感じ始めたのです。
誰かと比べる必要はない。
競争しなくていい。
自分が心地よくいられる場所を、少しずつ整えていけばいい。
それはとても小さな一歩でしたが、
確かに僕の人生を変える“転機”だったのです。
なぜ、僕は“変わりたい”と思ったのか
“何者かになりたい”という願望を手放したあと、
それでも僕は、「変わりたい」という気持ちだけは残っていました。
ここが、とても不思議な感覚でした。
僕は「結果」や「称賛」がほしかったわけではなかった。
じゃあ、なぜあれほど焦っていたのか。
それはきっと──
「自分の人生に、ちゃんと意味を与えたかった」
「“納得”して生きていたかった」
この2つの想いが、根底にあったからだと思うんです。
他人の基準じゃなく、
社会の枠組みでもなく、
自分の言葉で、自分の人生を語りたい。
たとえ平凡でも、
たとえ華やかじゃなくても、
自分が「これでいい」と思える生き方を、したかった。
僕は、“何者か”になろうとしていたんじゃない。
“本当の自分”を、取り戻したかっただけなんだ──
そう気づいた瞬間、
不思議と、焦りも、競争心も、嫉妬も、消えていきました。
人と比べて勝つことより、
自分を好きでいられる時間を持つこと。
それが、僕にとっての「変わりたい」の正体だったのです。
それでも、自分を信じて生きるために
今も、僕の生活は大きく変わったわけではありません。
朝になれば仕事に向かい、
日々の雑務に追われながら、
休憩時間に少しだけ、思考を言葉にしています。
でも、一つだけ決定的に変わったことがあります。
それは、
「自分の内側にある“問い”を、無視しなくなった」ということ。
・この生き方は、自分にとって誠実か?
・本当にやりたいことは、なんだろう?
・何を大切にして、何を手放すべきか?
こうした問いは、
誰かが答えをくれるものではありません。
でも、問いを持ち続けることは、
どんな状況にいても「自分と繋がり直す」ことができる行為です。
僕はもう、“何者か”にならなくてもいい。
でも、“自分にとって大切な問い”を見失わないように、
これからも思索を続けていきたいと思っています。
あなたにも、今、心の中に引っかかっている問いがあるのなら──
どうか、その声を無視せず、大切にしてあげてください。
その問いが、
これからの人生を少しだけ“あなたらしく”変える
きっかけになるかもしれませんから。
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本記事の内容・構成・文章は、すべて筆者個人の体験と思想に基づいたものです。
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💬 最後に──読んでくださったあなたへ
ここまで読んでくださり、本当にありがとうございました。
長い文章の中に、少しでもあなたの心に触れる言葉があったのなら、
それは、僕にとって何よりの喜びです。
人はみな、それぞれの場所で、
それぞれの形の「問い」と向き合いながら生きています。
そのなかで、こうして出会えたことに、心から感謝します。
また、別の記事やnoteで、あなたと再び“問い”を交わせることを願って──。


