「アテネオリンピックをやれ。」
M部長の神の一声で赤坂へ戻った。
オリンピック期間終わりでの特番の演出を任せて頂いた。
弊社からは小生ひとりだけだったが記念すべき初仕事がオリンピック。
1964年の東京五輪開幕日に生まれた小生が40年後、
会社誕生の初仕事としてオリンピックを担当するというのは不思議なものだ。
…初仕事は終わった。
スタジオを出て打ち上げのパーティ。
M部長にお礼を申し上げた。
終盤、スポーツのNさんというプロデューサーが近寄って来て
「このあと、一緒に一杯やりませんか?話したい事あるんで」と言う。
パーティ終了後、Nさんと店に入った。
「いつも局内で御挨拶はしているのに、ちゃんと話すのは初めてですよね…」
「そうですね」
「…特番をやってもらえませんか?」
「え?」
来た!トントン拍子で二本目の仕事だ!
「ありがとうございます!」
「でも…演出担当は決まってまして、その補佐なんですが…」
本番当日、小生とTとUはスタジオでAD(アシスタントディレクター)として働いた。
小生は…40歳のアシスタントディレクターとして。
TとUは驚いていた。
当然だったろう、つい2ケ月前までは某人気番組の演出チーフとしてスタジオの
サブ(副調整室)でふんぞり返り、3時間特番では中継車で怒鳴りまくっていた小生。
それがカメラの下に這いつくばり、カンペを出して…
お客さんに拍手のキッカケ出しのADをやっている。
「そんな事やらなくていいっすよ。」とTもUも言った。
小生は、TとUに
「勘違いしてはいけない。我々はもう一度ここから始めなくてはならないんだ。
2ケ月前までの事は一度忘れようや。何の実績も無い会社になってしまったのだから・・・」
TもUも納得していなかった。とりわけTは前のチームではコーナー担当の
立派なディレクターだったのだから、会社の仕事とはいえ恥ずかしかっただろう。
小生は会社を作るという事を例の用賀デニーズで聞いた時、こうなる事を
ある程度予想していた。
F、T、W…そしてAD達はそれぞれ制作会社に所属していたのだが
皆、自分達でそれまでの仕事を獲ってきたわけではない。
所謂、派遣会社からの出向である。
「そんな番組はいやだなぁ」とか「もっと面白い番組無いのかよ」と
好き勝手言える環境にずっといたのだ。
小生はもともとフリーランスのADとして出発し、
その後も自分で営業活動をしなければならない状況にあった。
だからフリーランスの厳しさも不安も知っていた。
2004年秋…仕事が無くなった。
Tは、以前所属していた会社の知人から日テレの夕方30分番組の誘いが来た為
ディレクターとして出向し…その後、事務所に姿を見せなくなった。
毎日、皆事務所に来ても仕事が無い…
秋の番組改編期・特番シーズンは終わり、どこにも仕事は無かった。
小生は昼間、今までのツテを辿って人と会い、帰ってきて事務所で一人真夜中まで企画書を書いた。
※パソコンをいじった事もなかったのでこの時の有り余る時間が後々役に立っている(笑)
仕事は無いが、給料は払わねばならない。
繰り返して言うが10月の時点で仕事が無いという事は12月までは1円も入って来ない。
冬の特番に企画書が万が一間に合っても金が入って来るのは次の年の2月である。
潰れる………
ある日、特番の企画書を携えて初めてテレビ東京へ行った。
放送作家T氏が編成の方にアポを取って下さったのだ。
企画書を必死でプレゼンした…しかし
「実績の無い御新規の制作会社とはお付き合いできません…申し訳無いですが」
どんな会社か分からないのに危なくて番組を任せられない…確かにそうだ。
「実績かぁ…」
作家T氏は「すみません…」と小生に謝った。
「門前払いだったっすねぇ。ま、しゃーないっす。何か…考えまーす」
精一杯の空元気で小生は言った。
何か考える?……何をどう考えるって言うんだ?
やらせてもらえなければ「実績」を作れない…
途方に暮れた…
陽も暮れていた…
腹も減っていた。
ボロボロになった手漕ぎのゴムボートからは空気が漏れて…
沈みかけていた。
M部長の神の一声で赤坂へ戻った。
オリンピック期間終わりでの特番の演出を任せて頂いた。
弊社からは小生ひとりだけだったが記念すべき初仕事がオリンピック。
1964年の東京五輪開幕日に生まれた小生が40年後、
会社誕生の初仕事としてオリンピックを担当するというのは不思議なものだ。
…初仕事は終わった。
スタジオを出て打ち上げのパーティ。
M部長にお礼を申し上げた。
終盤、スポーツのNさんというプロデューサーが近寄って来て
「このあと、一緒に一杯やりませんか?話したい事あるんで」と言う。
パーティ終了後、Nさんと店に入った。
「いつも局内で御挨拶はしているのに、ちゃんと話すのは初めてですよね…」
「そうですね」
「…特番をやってもらえませんか?」
「え?」
来た!トントン拍子で二本目の仕事だ!
「ありがとうございます!」
「でも…演出担当は決まってまして、その補佐なんですが…」
本番当日、小生とTとUはスタジオでAD(アシスタントディレクター)として働いた。
小生は…40歳のアシスタントディレクターとして。
TとUは驚いていた。
当然だったろう、つい2ケ月前までは某人気番組の演出チーフとしてスタジオの
サブ(副調整室)でふんぞり返り、3時間特番では中継車で怒鳴りまくっていた小生。
それがカメラの下に這いつくばり、カンペを出して…
お客さんに拍手のキッカケ出しのADをやっている。
「そんな事やらなくていいっすよ。」とTもUも言った。
小生は、TとUに
「勘違いしてはいけない。我々はもう一度ここから始めなくてはならないんだ。
2ケ月前までの事は一度忘れようや。何の実績も無い会社になってしまったのだから・・・」
TもUも納得していなかった。とりわけTは前のチームではコーナー担当の
立派なディレクターだったのだから、会社の仕事とはいえ恥ずかしかっただろう。
小生は会社を作るという事を例の用賀デニーズで聞いた時、こうなる事を
ある程度予想していた。
F、T、W…そしてAD達はそれぞれ制作会社に所属していたのだが
皆、自分達でそれまでの仕事を獲ってきたわけではない。
所謂、派遣会社からの出向である。
「そんな番組はいやだなぁ」とか「もっと面白い番組無いのかよ」と
好き勝手言える環境にずっといたのだ。
小生はもともとフリーランスのADとして出発し、
その後も自分で営業活動をしなければならない状況にあった。
だからフリーランスの厳しさも不安も知っていた。
2004年秋…仕事が無くなった。
Tは、以前所属していた会社の知人から日テレの夕方30分番組の誘いが来た為
ディレクターとして出向し…その後、事務所に姿を見せなくなった。
毎日、皆事務所に来ても仕事が無い…
秋の番組改編期・特番シーズンは終わり、どこにも仕事は無かった。
小生は昼間、今までのツテを辿って人と会い、帰ってきて事務所で一人真夜中まで企画書を書いた。
※パソコンをいじった事もなかったのでこの時の有り余る時間が後々役に立っている(笑)
仕事は無いが、給料は払わねばならない。
繰り返して言うが10月の時点で仕事が無いという事は12月までは1円も入って来ない。
冬の特番に企画書が万が一間に合っても金が入って来るのは次の年の2月である。
潰れる………
ある日、特番の企画書を携えて初めてテレビ東京へ行った。
放送作家T氏が編成の方にアポを取って下さったのだ。
企画書を必死でプレゼンした…しかし
「実績の無い御新規の制作会社とはお付き合いできません…申し訳無いですが」
どんな会社か分からないのに危なくて番組を任せられない…確かにそうだ。
「実績かぁ…」
作家T氏は「すみません…」と小生に謝った。
「門前払いだったっすねぇ。ま、しゃーないっす。何か…考えまーす」
精一杯の空元気で小生は言った。
何か考える?……何をどう考えるって言うんだ?
やらせてもらえなければ「実績」を作れない…
途方に暮れた…
陽も暮れていた…
腹も減っていた。
ボロボロになった手漕ぎのゴムボートからは空気が漏れて…
沈みかけていた。