風景がつくるもの。 | ネムリノソコ

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昨日書いた、北海道の樹の話。
浦河から札幌の車窓から見ただけの、ほんの少しの風景をもとにした話なので、かなり妄想に近いんだけど、森になってる樹木たちも、幹が細かったような気がする。

雪の重みに耐えられる、風に耐えられる、しなやかな樹が適合したんじゃないかと思いながら、車窓を眺めてました。

かなりな大木も幹が細い。南国の大木とは明らかにちがう。

この風景を見て育ったら、やっぱりメンタリティはちがうよな、とか考えてた。
例えばだけど『大樹のような男になれ』と、父親に言われたなら、南国なら『どっしりと構えて、台風の嵐もはね返す』男をイメージするだろうし、北海道なら『しなやかに柔軟に重荷にも折れないスッと立つ』男をイメージするんじゃないだろか。

植物は専門ではもちろんないし、車窓からの妄想でしかないのだけど、風景がつくるメンタリティって、きっとあるよなー、とは思った。
それは、ずいぶん前に上海に行った時も思った。


あれだけ行けども行けども平地。中華思想とかはさて置き、あの平地がつくるものって大きいやろなー、と。
そういや、揚子江にもびっくりしたなー。川って概念が根本的に違うよね。そりゃ赤壁の戦いも起きるわ。

なんか中国に話がそれたけど、今年6月北海道浦河への旅では、そんなことも考えてた。
写真の木もそうだけど、もっと大きな木も根元から幹が枝分かれしてる。雪の重みに幹が1本折れても株としては生き残れる生存戦略なんじゃないかなー、とか考えてた。合理的。

北海道の方の底に流れる合理性が好き。大阪の合理性ともまた違う。あー、そういや北陸の方の合理性も好きだったなー。
長く、しかも確実に来る大雪という「重し」が育んでるのかなー。
助け合う「しかない」、けど、自分の身は自分で守る「しかない」環境。

改めて、妄想をたくましくしていました。

しまった、この話は来年9月の『ツキシカナイ』まで、とっとけば良かった。「しかない」話。

間もなく『ツキカゲノモリ』の稽古はじめ。なんとか、脚本の改訂作業は間に合いそう。それで、ブログの更新もはかどってる。


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◼︎満月動物園 第弐拾弐夜
『ツキカゲノモリ』
2014年12月26日(金)~28日(日)
シアトリカル應典院

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