位置が定まれば速度が定まらない、速度が定まれば位置が定まらない、不確定性原理。
ボクは常々、演技・演劇の製作現場にもあてはまると主張してきたのです。
最先端の数学・物理なんかサッパリな訳ですが、
不確定性原理については、モノサシとパチンコ玉の例えが分かりやすかったのです。
つまり、ツルツルの平面の上にパチンコ玉を置いて、モノサシをあてて位置を測ろうとすると、その衝撃でパチンコ玉が動いてしまい、次の瞬間には別の場所にいる、
動いているパチンコ玉の位置を測ろうとモノサシをあてると、動きが止まってしまって位置と速度は同時に測れない、というものです。
何に書いてあったかは忘れましたが、つまり素粒子にはそういう性質があるのだそうです。
人間も細分化していくと素粒子で構成されてるんだから、その性質を継承してるはず、なんてムチャは言いません。
ただ稽古場の「確定性」を担保しつつ、不確定性を確保するのに、不確定性原理になぞらえているだけです。
最先端の数学とかサッパリ分からないけど、「言葉」を武器にしている人より「数字」を武器にしている人の方が柔軟だと思ってます。良し悪しは別にして。
ノーベル賞で「文学賞」の人と、物理や数学の人との佇まいを見比べるだけでも、そう思ってしまう訳です。
個人的に愛してやまないのは言葉を武器にする人なんですけどね。概ね頑固で可愛らしい人が多い。
仮説として、「言葉」の行きつく先は「自分」であり、「数字」の行きつく先は「自然」だからなんじゃないかなぁ、と思っています。
「自然」には勝てない。
「だってそうなんだもん」
て事実とどう向き合うかってところから始めるしかないから。
「自分」が相手だとそうはいかない訳で、
「どうしてこうなのか」
を突き詰めるところから始めざるを得ない。
あらゆる学問は「世界」を読み解くために頑張ってると思いますが、言葉が強い時代と数字が強い時代とがあるような気がします。
今をどちらに位置づけるかは、まぁ、自分の作品の中で表明したい訳です。
ここで表明すると論証する必要が当然あって、それが面倒なだけなんですが。
しかし「自分の作品の中で表明」というのは、なんて便利で乱暴な言い回しでしょう☆
それを言ったら、世の中に宣伝なんてものはなくなりますね。
そりゃ、付け加えるモノも取り除くモノもなにもない、という状態を目指して作品つくってる訳で、自分の考えてることなんか自分の作品の中で表明しつくされてて、後からそれについて語ることなんか、ホントに残ってないんですけどね。
アフタートークは苦手ですね。特に聞かれる方は苦手です。はい。
そんなことを改めて考えながら『赤猫ロック』の稽古をしてます。
「稽古をしてます」と書いたのは、不確定性原理にまつわる物語を書きましたよってことではないという断りです。
お話は極めてシンプルです。最近シンプルさにこだわってます。なんでこだわるのかは、はしょります。
不確定性原理が「製作現場」にあてはまると書いたのは、本番でなお、位置か速度が不確定では困る、という意志表示です。
本番ではビシィッとなってます☆
だけどこの文章が不確定すぎる気はします。
『赤猫ロック』おもしろいんですよ、ホントに☆
◆戒田竜治演出、ヤマサキエリカ一人舞台『赤猫ロック』は11月27日(金)→29日(日)/in→dependent theatre 2ndで!!