桜宮神社の色の濃い桜が散ってました。
桜色の水溜まりみたいになってます。
新年度、
新学期、
新入生、
新クラス、
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なんてな『新』が、みんな『新』じゃなくなる、
このくらいの時期がキライだったのを思い出しました。
大学をクビになってから、バタバタと社会に潜り込んで、
そんなこと思い起こすヒマもなかったんだなぁ、と改めて。
まっさらの教科書が、もう「まっさら」でなくなる
そのサカイメはどこにあるんでしょう?
最近の脳の研究で『正解』を判断するところと、
『不正解』を判断するところは別の部位だと分かったそうです。
コンピューターの「0」か「1」か、
「True」か「False」か、みたいに
1ヶ所で『正解』、『不正解』を決めてるんじゃないんですね。
ここからはボクの想像ですが、
『正解』の部位と、『不正解』の部位に
同じだけの刺激がくることもあるんでしょう。
だから悩んだり迷ったりするんでしょうね。
その脳(人)にとって、「正解であり、不正解」もあれば、
「やや正解」や「すごく正解で、ちょっと不正解」
なんて感じなんでしょうか?
同じように『まっさらの』の部位と
『いつもの』の部位もあって、
『まっさらの』の部位への刺激がだんだん
減っていって、
『いつもの』の部位に刺激がくる
ようになるんじゃないかな。
『いつもの』は、つまり『安全』とか
『安心』とかと等価だと思うので、
ノッパラで暮らしてた昔の人には
一番必要なとこのひとつだった
だろうから『いつもの』という
部位はきっとあるんじゃないかと
思うんです。
そしてきっとその『まっさらの』の
部位への刺激が減っていくことに、
寂寥の念を感じてしまうんでしょう。
特にギリギリまだ少しだけ
『まっさらの』に刺激が残ってる頃に。
なんてことを考えてると、
ふと、いくらまっさらでも、
まっさらの戦争はかなわないな、とか、
ましてや、いつもの戦争は
もっと、かなわないので、
戦争は結局かなわないなぁと
思考がどんどんそれていくのは、春のせい?