なにを言いたいのか、わかんない話になりそうだけど、
ボクは、「ボクらしさ」というのが、よくわからない。
同じように、「満月動物園らしさ」も、
実のところ、わからない。
折に触れて表明しているんだけども、
「満月動物園」は、ボクの一代看板であって、
二代目はない。
(うっかり、ボクが急死・事故死して、勝手に継いじゃう、
物好きがいても、それは好きにしてください、
としか言いようがない)
二代目がないということは、
集団としての永続性を見据えていないということ
であり、満月動物園とボクはイコールで結ばれる
関係にあると、考えている。
その前提で、満月動物園のメンバーが変わったり、
増えたり、減ったりすれば、
「満月動物園らしさ」は変容するのが、当然だと思う。
「らしさ」について考える機会が重なったので、
ついつい、そんなことを思いめぐらせてしまった。
「満月動物園」は融通無碍だ。
「ボク」より、よっぽど柔軟だ。
それだけで、「看板」をあげておいてよかったと思う。
点を線にし、線を面にし、……、
ということが、演出家の仕事ではないのではないか、
と、考えはじめた。
点は点のままに、美しい。
線は線のままに、美しい。
面は面のままに、美しい。
点は点たれるか。
線は線たれるか。
面は面たれるか。
それは自分の発想を自由にさせる着想ではなくて、
どこまでも自分を問われる着想だったような気が
する。
「問い」
という言葉、について考えると、寝付けない。
でも、考え続けたい。
「演じるとはなにか?」
ほんとに、何が言いたかったのか、
わからない話になってしまいました。