火を『欲』の譬えにしたりとか、
ほかのなにかに譬えたりとか、
まー、それは、よくある話。
僕の最も身近にある火の話です。
たばこの火です。
舞台をのぞけば、裸火にふれる機会というのは、
ガスコンロか、たばこの火しかありません。
ガスコンロは先人たちの努力と知恵によって、
(とりあえず僕の中では)
『制御された火』です。
「安全な火」とは言いませんが。
たばこの火は「システマティック」では、ありません。
「たばこを吸いたい」という欲望に基づいて点火し、
「満足した」という欲望に基づいて消化します。
「消えてるかな?」
に、始まり、
「消したかな?」
「消え切ってるかな?」
と、疑念に際限はなく、さてさて、果ては、
「火の粉が落ちて、くすぶってないかな?」
と、まーーー、キリありません。
気にしはじめるとね。
たばこを吸うようになってから、
外出—、つまりは家を出るときに、
『安心』というものを背に、
歩いた覚えがありません。
それでも吸ってしまうんだなー、
という話でもあるのですが、
本題は、今朝のコトです。
寝坊気味であわくって出かけまして、
あんまし、自分の火の始末を見てませんで、
サンダーバード号に乗ってから、
ドキドキしはじめたんですが、
ツマからメールが入って、
とりあえずツマが生きているので、
火の始末も大丈夫だったんだな、
と、胸をなでおろし、
そして、まぁ、どうやら、たばこと、
縁を切ることもできなさそうなので、
『火』とどう付き合っていこうかな、
と、考えてしまったのでした。
「火事」とか、かなわないですしね、ホンマ
んーーー、オチはないけど決意表明。
「火事はださないぞ!」