渡しのプロ | ネムリノソコ

ネムリノソコ

おたいらに

特急電車に乗ると検札がくる。
切符をあらためてハンコを押すあれだ。
検札のたびに感心するのだけど、
彼らは切符を渡すのがすごく上手だ。
こちらが受け取りやすい位置に、スッと差し出す。
しかも動作が早い。
若干の個人差はあるにせよ、おおむね共通している。

コンビニの店員なんかがレシートを渡すのとは
所作が違う。
すばやく正確で、受け取るほうに不快を与えない。
そりゃ、一日に何回も受け取って、
ハンコ押して、返しているのだから上手いのは
当たり前といえば当たり前なのだが、
思わずプロだな、とうなってしまう。
翻って自分の場合を省みるとどうかというと、
これは思い出したくもない。

「渡す」という行為が所有権や
管理責任の移譲だとすると、
その境目がスムースであることに
洗練を感じているのだろう。

先ほど例に挙げたコンビニのレシートなどは、
その所有権や管理責任の放棄でしかない場合が多い。
このとき、渡されるという行為は、
所有権の放棄されたモノを拾う感覚に近い。

どこにでもある風景の、なんともない切符の
やりとりなんだけど、そこに車掌氏の明確な
意思や意図がみてとれて、受け取るにしても気持ち良い。

コミュニケーションはキャッチボールに
例えられることが多いが、受け取るばかりでなく、
いかに上手に渡すかということも、
やはり大事なんだと、車掌さんの所作に、
あらためて考えさせられたのでした。

さらに思いを浮遊させているうちに、
小泉首相のことを思い出した。

あのワンフレーズの喋り方はは、
やはりコミュニケーションとは思えない。
『拾いやすい』言葉を投げ捨てている、
ように思える。
したがって小泉首相の言葉は『拾う』ことは出来ても、
『キャッチする』ことは出来ない。

その言葉に対する(つまり他人に対する)
距離感自体をどうこう言っても、
今は仕方ない。
では、あとは『拾った』者が、
どう読むか、どう判断するか、だけではないだろうか?