からだ
と
こころ。
私の からだ と 心 は、その両方ともが健康。
だと、
思っていた。
もうずっと昔の、ある経験から
「病気を自覚をしない人間はいても
病気をもたない人間はいない」
という
思いを抱いているので、
ココでいう「健康」とは
健康でありたいという意思そのもの
だと、
解釈してもらいたい。
つまり
人間誰しも
ゆがんだ病理
症状として現れるさまざまな痛み
を
抱えている、ということだ。
すべての人とおなじに。
あなたとおなじに。
観念的な話になるけれど、
要はこういうことだ。
私は、こんな私にも病気がある、ことを自覚している。
病気の特徴をつかみ、それを治したい、と考えている。
自覚なく
対処を講じない病気は感染ることがあり
また蔓延することがある。
そして
その病気を治すことができるのは
病気を抱える当人以外にはいない。
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08年春。
私は、職場で
「敵」と戦っており、
自己肯定のために
健康を過信していた。
正確には、
過信する必要があった。
もっと言えば
そうだな、
「じぶん大好き」
を公言するくらい
おおらかで、
いっそう風通しよくいなければならない時期だった。
そうしないと状況に負けてしまいそうだったし、
正面からぶつかればこっちが折れちゃいそうなくらい、
そのときの、私の「敵」は強力で、わかりやすかった。
といっても、
「敵」は人間じゃなく
パワーハラスメント。
パワーハラスメント
とは
「概念」であり
ひとつの「病理」であり
ときに「暴力」そのものでもある。
私は今も
あの「現象」に対して憤りをおぼえるけれど、
その暴力を駆使した本人よりも
暴力に骨抜きにされかかった状況、
受容とごまかしを無意識に取り違えて
戦うことを放棄した
周囲の人々
に
圧倒されそうだった。
戦うことをやめたとき、
人は死ぬ。
ひとは暴力によって死ぬのじゃない。
暴力によって呼び覚まされるはずの生命力を
みずから封印し、
ほんらい受け取る必要のないものを受け取り、
許す必要のないものにまで物分りのよい顔をして
じぶんを裏切り、殺してしまう。
その「あきらめ」に一番近い場所にいた私も
取り込まれ、
生きる力と可能性を吸い取られ、
力をなくしてしまいそうになった。
暴力
と
あきらめ。
ふたつの病理のあいだを揺れ動いたすえ
いつか、
ひとりぼっちの戦いを
選択することになった、
そんなとき。
かれに出会った。