妙に耳に残るAUのCM レディー・ガガ

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皆さんこんにちは~

今日の朝は雨と風とおまけに雷まで鳴って大変でしたー

でも今は晴天です。

暖かな日だったから救われたけど妙な天気でしたね。

なんだか頭がスッキリしないのでお気楽記事~

最近AUのCMにレディガガが出演していますよね。

深夜枠だとゴールデンよりも頻繁に流れている上FMとかでもあの曲が結構流れていて妙に耳に残っています。

レディガガとかって名前と過激な衣装やパフォーマンスをするって事くらいは何となく知っていたけど今までほとんど興味ありませんでした。

でも毎日CMで見ているうちにどんな人?みたいな今日意味が沸いてきたので調べて見ましたー

へぇ~CMで流れているあの曲は「ポーカー・フェイス」って言うんだ。

ヨーロッパ全土を対象にしたシングル・チャートEurochart Hot 100 Singlesで16週にわたって1位を記録

って凄いな・・・。

しかも結構なお金持ちのお嬢様で、どうしてどうしてなかなかの芸術家ではないですか・・・

う~ん・・・見かけの過激さだけではないんですね。

しかしあの曲耳に残るなぁ~


The Monster Ball Tourでパフォーマンスするガガ(2010年)
基本情報
出生名 Stefani Joanne Angelina Germanotta[1]
出生 1986年3月28日(24歳)
出身地 アメリカ合衆国ニューヨーク州
ジャンル ポップ、ダンス[2]、エレクトロニカ[3][4]
職業 歌手、ソングライター、ミュージシャン
担当楽器 声、ピアノ、シンセサイザー
活動期間 2006年 – 現在
レーベル デフ・ジャム(2007-2008年)
インタースコープ・レコード(2008年-現在)
公式サイト www.ladygaga.com

ステファニー・ジョアン・アンジェリーナ・ジャーマノッタ(1986年3月28日 - [5])は、レディー・ガガ[6](Lady Gaga)の芸名で知られるアメリカ合衆国のレコーディング・アーティスト。ガガは19歳の時にデフ・ジャムと契約し、ニューヨーク市の近郊のクラブでダンサーをしながら生計を立てた。また同時期インタースコープ・レコードとソングライターとして契約をし、同レーベルのアーティストを中心に複数のミュージシャンに楽曲提供を行った。その後楽曲提供を行う中でエイコンにガガの歌手としての才能を認められ、エイコン自身のレーベルコンライブとレコード契約し、歌手としてのキャリアをスタートさせた。

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2008年に発売されたそのデビュー・アルバム『ザ・フェイム』は商業的に大きな成功を収めた。アルバムは多くの批評家から肯定的評価を受けたのに加え、4カ国の音楽チャートで1位を獲得。アメリカ合衆国ビルボードのダンス/エレクトロニカ・アルバム・チャートでも1位になった。アルバムからの最初のシングル2曲「ジャスト・ダンス」「ポーカー・フェイス」は世界中のチャートで1位を獲得する大ヒットとなり、前者は第51回グラミー賞にて最優秀ダンス・レコーディング賞にノミネートされた。ガガは2009年にニュー・キッズ・オン・ザ・ブロックツアーとプッシーキャット・ドールズのツアーに同行した後、自身初のライブ・ツアーThe Fame Ball Tourに乗り出している。2009年に2枚目のアルバム『ザ・モンスター』を発表した。同アルバムからのシングル「バッド・ロマンス」は世界中のチャートで1位を獲得した。彼女は現在までに世界中でアルバムは1,700万枚以上、シングルは5100万枚を売り上げている[7][8]。

デヴィッド・ボウイとクイーンの様なグラム・ロッカーのほか、マイケル・ジャクソンやカイリー・ミノーグ、マドンナといった複数のポップ歌手から音楽的に影響を受けている。また同時に自身が作詞・作曲とパフォーマンスを行う上で必須の部分であると主張するファッションの面からも強い影響を受けている[9]。2010年5月、アメリカの雑誌『タイム』の世界で最も影響力のある有名人を選出する「タイム100」のアーティスト部門の1位に選ばれた[10][11]。
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来歴 [編集]
1986 - 2004年:生い立ち [編集]
イタリア系アメリカ人でインターネット企業の実業家[12][13][14]の家庭のもと、ニューヨーク州ヨンカーズに生まれる。 4歳で楽譜なしでピアノが演奏できるようになり、13歳になるころには初のピアノ・バラードを作曲。11歳でマンハッタンのカトリック系の私立学校、Convent of the Sacred Heart(聖心女子学院)に通う[15]。同学校はヒルトン姉妹(パリスとニッキー)も在籍していたお嬢様学校だが[16]、パリスとは6歳年が離れており学年が違う為、学校の廊下で見かけたことしかないという[17]。14歳からニューヨークのクラブでパフォーマンスを開始し、17歳で、これまで世界で20人しか早期入学が許されていないニューヨークにあるティッシュ・スクール・オブ・アート(ニューヨーク大学の芸術学部)に入学する。そこで彼女は音楽を本格的に学び、エッセイや論文を書くことによって作詞作曲技術を改善した。大学1年生のときにニューヨーク大学を休学して芸術活動に専念する。
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2005 - 2007年:初期のキャリア [編集]

レストランでパフォーマンスをする初期のキャリアにおけるガガ。ガガは19歳の時、デフ・ジャム・レコーディングスとの間で契約を結んだ。同じころ、親元を離れストリップクラブで働き出す。このことは特に隠さず、「ストリップクラブで働いていたの。私のようなリッチなイタリア系の家庭の出では珍しいことよね」とストリッパーとして生計を立てていたことを明かしている。ストリッパーとして人気があったようで、ステージでヘアスプレイに火を付けて、狂ったように踊ったという。家族の助けなしに生活することで自由を実感したと語るが、家族は認めてくれなかった[18]。その他、ドラァグ・クイーンとゴーゴーダンサーとパフォーマンスを行うためにクラブに出入りしており、このことを知った父は大変なショックを受け、ガガ本人も「あのとき、2、3ヶ月の間父は私を直視することが出来なかった」と認めている[15]。ガガの初期に制作された楽曲に携わった音楽プロデューサーのロブ・フサーリはガガの声のスタイルをフレディー・マーキュリーのそれと比較し、クイーンの楽曲「Radio Ga Ga」をもじり、現在の芸名"Lady Gaga"を彼女に与えた[19] [20][16]。また、ガガがスタジオに来るとき挨拶代わりにフサーリは『Radio Ga Ga』を歌った、それはガガの入場曲のようなものであったという。ある時、フサーリがガガに送ったメールの中で書いた「Radio Ga Ga」という文が、修正機能で「Radio」が「Lady」になり、「Lady Ga Ga」になってしまった。しかし、それを気に入ったガガが「2度と私をステファニーと呼ばないで」と言ったため、以後「レディー・ガガ」と呼ばれるようになった[19]。

2007年にインタースコープ・レコードとソングライター契約し、同レーベルに所属するファーギー、ブリトニー・スピアーズ、プッシーキャット・ドールズ、ニュー・キッズ・オン・ザ・ブロック、エイコンといった有名アーティストに楽曲を提供した[16]。制作者として活動を続けていたときにエイコンがガガには制作者としてだけではなく、歌手としての才能もあると認め自身のレーベルコンライブとアーティスト契約を締結。エイコンはガガについて、「類稀な存在」「ダイアモンドの原石」と表現している[21]。ガガはデビュー・アルバムの制作を音楽プロデューサーレッドワンと共に行った。