義母は水曜日の朝に旅立ちました。
亡くなる4日前まで、少ないものの口から食べ、苦しまず、穏やかな最期でした。
死亡診断書には「老衰」と書かれていました。
60代からパーキンソンになり、徐々に体が不自由になり、同じ60代に乳癌とその再発もし、認知症も出ましたが、80代まで生きました。
旦那と結婚した17年前から、本当にお世話になり、義母がまだなんとか動けるときは車椅子&半身麻痺の義父も連れて、旅行にもよく一緒に行きました。
なんせ私は毒母に育てられたから、結婚してから擬似的な親の愛を義母からいただきまして。
義母が抗癌剤治療して髪の毛が無くなったとき、ニット帽を手作りして渡したのですが、ずっと使ってくれていて、すごく嬉しかったのを覚えています。
義母に対して、施設に入る前にやれることを自分たちなりにもがき苦しみながらやり、私達ではできなかったことを施設のスタッフの方々が手厚く介護してくれ、後悔はないです。
旦那も「後悔や悔いは一切ない」と言っていました。
旦那は30年前から半身麻痺の父親の介護、父親が出来なくなった仕事も手伝い(平日は会社員、週末は父親の自営の仕事手伝い)、その自営業をたたみ、私の祖父の介護も手伝い、母親の介護、実家の処分。
親の望みに沿うように長男として自分の時間なんか2の次3の次で30年駆け抜けてきましたので、介護から「まだ解放された実感がない。趣味だった釣りでも再開しようかな」と言っていましたが、まだピンと来てない感じです。
が、スッキリした表情でビールを呑んでいました。
急にフリーになった旦那…
ボケないか?大丈夫かな
娘たちが生まれてから、
私もフルタイムで働きながら、私は祖父の身元引受け人で、20年程通い介護をしているさなか、私達は義父母の通い介護もしていました。
祖父の家まで往復3時間弱、私の祖父はわがまま&頑固で、看護師さんにしてもらうのは嫌だといい、お風呂に入れないときは私が体を拭いてました
私自身が出産で入院中は、旦那が祖父を連れて車椅子で買い物などに連れて行ってくれました。レストランも行ったそうです。旦那は義父の介護で慣れていたので、車椅子でのお出かけも難なくしてました。
毒母と祖父の話はまたいつか…。
私の祖父を看取り(祖父の実子である毒母は逃げて何年も会いに来ず)、喪主として葬儀も行いました。祖父は亡くなる直前、「わしは幸せ者だ、ありがとう。もう充分してもらった。」と私に言ってくれました。
その4ヶ月後に今度は義父が旅立ちました。
その後の義母のことは以前にも書きましたが、私が仕事を辞めるしかないギリギリのところで、週末はオムツを代えたり、床ずれ予防をしたり、ヘルパーさんのノートを確認して排泄状況を確認したり、洗濯したり、介護用品の買い出ししたり。
転倒や怪我が増え、守れない状況になり、同居も考えましたが、当時認知症がすすみつつあった義母、家を出て徘徊しても近所の誰かが気づいてくれたり、近所の人は長年の義母を知っているので助けてもらっていました。
私達のところに来ても、私達の家は田舎で徘徊しても知らない土地で誰にも気付いてもらえず、すぐ裏の大きな山に入ってしまう恐れがあり(熊も出没)、物理的に難しく、しまいには通い介護の限界を迎えてしまいました。
その後のことは以前書きました↓
とにかく当時は、私達夫婦は3人(祖父、義父母)の介護を背負い込んでいましたが、それぞれがおろそかにならないよう、祖父や義父母にとって最良の選択をしていきたいと悩みもがいてきたので「悔いはない」と、お互い言えました。
しかし今回、私は高熱のためなんと葬儀に出れず、全く旦那のサポート出来なかった
「こんな時にごめん」と私が謝ると、「生きてるときに色々してもらった。生きてる時にしてくれたことのほうが大事!」と、旦那が言ってくれました。
まだ昨日も熱が
旦那とは介護を通して、お互い「同志」になった感覚。
似た者同士なんだね、きっと。
出産してから介護と育児と仕事、待った無しで、私達ここまで来ました。
子供たちが5歳までは、祖父と義父母の介護で毎週末通う日々で忙しすぎて記憶がほとんど無いです
確か酒量もちょっとだったはず……。
短い時間でも娘たちは祖父や義父母の愛情をもらっていたし、手を握ってあげたりしてました。
今はまだ娘たち10歳なので、義母の旅立ちは悲しそうではないです。
久しぶりに親戚がそろって、いとこのお兄ちゃんお姉ちゃんと会えて嬉しそうでした
娘たちは、おばあちゃんに天国に持っていってもらうものをせっせと作ったり絵を描いたりしてました。