暗黒の時代(幼少〜中学時代)
毒親についての記事を書くと言いつつ何ヶ月か経ちました
ちょっとずつ下書きしていたんですが、楽しい内容ではないので書くペースが進まず…。
昔、家庭についてのブログをしていたので、もしかしたらご存知のかたがいらっしゃるかもしれません。
また新たに誰かの目に触れて、同じような体験をしたかたや、その周りの方に何か感じることがあればいいなと願って書きます。
このシリーズ(全5〜6回?+番外編あるかも?)はコメント欄は閉じさせていただきます。
実体験以外で、私が語れるものは何もないので…。
私が大人になり人に話して辛かったことは、「我が子を愛さない親はいないよ、あなたの捉え方が悪いんじゃないの」と言われたこと。
ただただ、親から逃げた子供を【悪い】【おかしい】と思う世間の目がしんどかったので。
同じような人がいたら、逃げるのもわかる、と理解してあげてほしいな。
さて、本編スタートです。
私は幼少期から18歳頃までを勝手に【暗黒の時代】と呼んでいます。
幼少期は、食事以外は世話してもらえず(食後の食器洗いは私)、父母は私に全く関心がありませんでした。
毎日同じ服を着て、頭は髪が絡まって大きな塊をつくり(母と姉は「スズメの巣」と呼んで笑っていた)、フケだらけ。
幼稚園の写真には、お遊戯会でドレスの衣装を着ているにもかかわらず、頭がボサボサで、どう見ても異様な姿の私が写っています。
連日の両親の喧嘩に寝たふりをし、父からはほんのわずかな貯金をとられ、父が家出すると私達子供が探しに行けと言われ街をさまよいました。
授業参観は、母一人浮いていました。奇抜な目立つ真緑とか真っ赤のスーツを着て、濃い化粧をしてアクセサリージャラジャラで一番目立つ前の扉にいました。あのお母さん誰?とみんなザワザワしていました。
自分が主役のように。
当の娘(私)は、髪もボサボサ、フケだらけなのに。
お風呂もあまり入れず、服は最低3日は同じ。歯磨きも全くしなかったので、臭い臭いとクラスメイトに言われました。
食事の世話をしてもらってたなら良い方だと言われるかもしれませんが、野菜の水煮みたいなものばかりで、味がなく食べられません。
朝は山盛りの生野菜を、ドレッシングなしで完食しないと学校に行けない謎のルールがありました。
ドレッシングなしの生野菜を山盛り……小学生の私は食べ切れず、毎日遅刻していました。
なぜそれを時間のある夕食にしないで朝に強要するのかわかりませんでした。
その他にも、プロポリスやクロレラもたくさん飲まされました。
小学生の私には、粒が大きく、飲むのにも時間がかかりました。
母は何かの健康神話にとらわれていたのか…?
これを親の愛情と言えばそうなのか?
わかりませんが、ただただ小学生時代の朝食は苦痛でした。
そのうち、私が連日遅刻するので、クラスの代表が毎日迎えに来てくれるようになりましたが、一度も一緒に登校したことはなく、母は「ごめんね〜、まだ朝ごはん食べ終わってないから先に行って」と、優しい声で追い返していました。
クラスの代表が迎えに来たことからも、小学生の時の先生たちは、私の知らないところでいろいろ考えて頑張ってくれていたんだと思います。
3者面談では「お姉ちゃんは頭が良いのに、この子は全然ダメで」「この子のお姉ちゃんは頭が良くてね…」と、頭のいい姉と比べてばかりの母に、先生は
「お母さん、この子はこの子ですよ!」
と、強く言ってくれてたけど、母の心には何も届かず。
頭が悪いから気分が悪いと言い、母は私の面談には来なくなりました。
姉から「ブス」と言われ続けても母は注意しなかったので、大人になるまでずっと「私はひどいブスなんだ」と思いこんでました。
母は人からもらったものを「こんなもの、いらないのに送ってきて!」と、子供の私の前でゴミ箱に投げつけていました。
父方の祖母の手作りお菓子も捨てていました。
(この場面がトラウマで、大きくなって友人にプレゼントを渡すのが怖くなり悩みすぎて、よく疲れていました)
6年生になると「離婚するからどっちの名字にするか決めろ」と母に言われ、大いに悩みました。
先生たちはますますしゃべらなくなった私を呼び出し、
「家庭で何があるのか話して」
と、根気強く私に聞いてくれたけど、私はずっと無言で下を向き、SOSを出せませんでした。
中学生になると両親が離婚し、
母と姉と私は母方祖父母宅へ。
祖父からは私は「いらない子」だと言われ、友人からの電話も「そんなヤツはおらん!」と言って電話を切り、取り次いでもらえませんでした。
祖父に勝手に物を燃やされたりもしました。
あるとき母が泣いていたので「どうしたの?」と声をかけたら、「あんたのせいで私が祖父にいじめられるんだ」と母から責められました。
祖父母宅に移り住んで間もなく、中学1年生の夏、「(成績は普通でしたが)
馬鹿はこの家にはいらないから養子に出す」と言われ、家族会議がおこなわれました。
私はそれを、扉の外で聞いていました。
辛くて悲しい体験だったので、20代半ばまで、この時の記憶が抜け落ちていました。
あることがキッカケとなって鮮明に思い出したのです。
子供の私は、
この記憶を消すことで生きていけたんだと思います。
祖母が母親代わりをし、祖父が学費を払い、母は一銭も生活費を入れていませんでした。
お金がなくて私を捨てるわけではありません。
馬鹿はいらないから捨てる、と言って、母と祖父は私を捨てようとしました。
ついに引き取り先の父方の祖母が来ました。
しかし父方祖母は、
「引き取るなら姉妹二人とも。姉妹を別々にさせるのはかわいそうだ」
と一歩もひかず、
成績優秀だった姉を手放したくなかった母と祖父は、
私を捨てるのを泣く泣く断念
していました。
夕食の時、母はいつも、
「(面倒みたくないから)早く死ね!」
と言いながら、毎日、祖母が作ってお膳に並べた祖父のおかずに、
○の素(体に悪いと思いこんでいた調味料)をかけまくっていました。
※○の素を毎日大量に食べさせられていた祖父ですが、長生きしました。
※祖母は、こんなことを子供の前でしていた母を注意していませんでした。
怖かったです。
子供の私の前で、面倒見たくないからとカゲで祖父のことを「早く死ね!」と何度も言い、そんなことをしている母親が。
〜続く〜