贋作・罪と罰
野田MAP @パルコチケット取れました!
以前から脚本を読んでいたので、今回は演出と役者だけを見ることが出来ました。
『赤鬼』同様、舞台面と客席面の中間地点に特設舞台を設置し、客席がそれをとり囲むようになていました。そのため本来舞台面にも客席を設置していました。
わたしは舞台上手奥特設客席でした。そう、通常舞台下手になっているところから入り、上手奥の客席に入ったので、目の前は客席。ちょっと得した気分でした。
<おはなし>
幕末、尊皇攘夷思想がふきあれる江戸で女塾生、英(はやぶさ)は高利貸しの婆を惨殺。彼女には理想があった。
『人間はすべて凡人と非凡人との二つの範疇に分かたれ、
非凡人はその行動によって歴史に新しい時代をもたらす。
そして、それによって人類の幸福に貢献するのだから、
既成の道徳法律を踏み越える権利がある。』
理想のためと老婆を殺すが、その罪の意識にさいなまれる英。
目的は手段を浄化するのか?
お話もテーマもとても私このみのものでした。
演出方法は前回公演の「走れメルス」とは異なり、椅子だけのシンプル舞台。「想像力を駆使した舞台」とパンフレットにあるように、椅子だけでバリケードや居酒屋を表現している。効果音などは特設巣ステージの外に設けられている椅子に座った役者が出す。
主演の松たかこは、懸命・潔癖・頑なが故に不器用な女塾生を、勇ましく演じていた。信条に沿って行った殺人なのに、罪の意識に苛まれる・・・。しかもその罪が、誤って他人に掛かっているという事実。それに必死に耐えようとする姿に見えてなんだか痛ましい。
古田新太は、かっこ悪いんだけどかっこよくて。一番印象的な言葉。居酒屋で志士ヤマガタ(右近)や他血気盛んな若人が「将軍を引き摺り下ろせ」などと論じているところへ、古田が「自分でやる決意がないなら、論じるな」と言ったこと。
「正義」と論じる者が、実行する者(実行している者)と一致するとは限らない。もちろん論じることも大切だけど、論じていることに酔って何かを成し遂げた気になっていることってあるよな、と思いました。
たとえば何か事件がおきた時のマスコミとか。オウムとかもそうだよな。
時代によってかわる「正義」。それを主張して、どっちも引けなくて、殺し合い(相手を消す)以外方法が無くって、戦争がおきてしまうんだよね。
『贋作・罪と罰』は、見ている間絶えず私にそういうことを思い出させてしまって、だから作品に集中することがイマイチできなかった(しょんぼり)
相変わらずスピーディな演出や、やや古田や松の迫力と比較してちょっと物足りない役者さんもいましたけども、作品としてとても楽しみましたし、色々と刺激をもらった舞台でした。