芝居を書くこと自体が辛いわけではないんです。
ただ、今回扱う題材が辛くって、自分でも「うっ」ってきちゃいそうになります。

今回脚本中の登場人物の一人が、衝動的に人(親友)の命を奪ってしまいます。彼にとって「衝動的」な行動は、さまざまな「原因」の不運な組み合わせによっておこります。「才能への嫉妬」「思い通りにならない世の中」「理想とは違う女」「男としてのプライド」。そのどれもが原因、でも「理由」ではない。なぜそこまでの激しい衝動が起きるのか。彼はどうしてそんなことをしてしまったのか。

結論は「理由はない」です。

説明できない衝動だからこそ、行動と感情に任せ、倫理観も吹っ飛んで相手がただそこにあるという事実に刃を向けるわけです。目の前のわが息子を、娘を、理由なく「愛しい」と感じるのと同じように、自分ではどうしようもない衝動に体をあずけちゃうこと。理屈じゃない、全身が燃え上がり、手が振るえ、目を見開き、めまいをするほどの激しい衝動。そうしないことには、昇華できないんんじゃないかってくらいの、激情。

この作品は初演時は、上記のような「衝動」による殺人だったんです。
でも、もう再演執筆するにあたって、もっと時代性を出す工夫をしようと思いました。それは「実感のない殺人」。人の命を奪う実感ナシの殺人。これは、なんだかわたし、理解できる。私と同世代って、「どうしようもない衝撃」よりも「なんとなく、実感のない殺人」のほうが理解できるんじゃなかろうかとか、そんなことも考えてしまっている。

ちょっと、中毒な感じ。バスに乗っていて、電車にのっていて、流れる外の風景画をテレビ中継のように実感のないものに見えかける・・・。

いかんですね。いけないです。物語は物語として、冷静で客観的な目と登場人物になりきれる目を両立できなきゃいけないんです。

もうひとつ、かげねこが辛いなーとおもう奴が劇中に出てきます。
これは殺人を犯してしまった男の親友です。3人の仲良しで、一人が殺され、一人がその状況を目撃しているわけなんですけどね。
こっちも辛いのです。なぜなら、彼の立場にたつと「後悔」しか出てこなくなっちゃうんです。あの時、こうしていれば、あの時こうやって居れば。彼は殺人を犯していません、ただ見る羽目になってしまった気の毒な奴なのに、それであるがゆえに「自分が」何とかしていれば事件は防げたのではないかという自己反省というかもう、ただの自分いじめみたいなのは延々つずいちゃうんだよね。

さぁ、前ススメ!