コラム風に書いてみる(トミー・マリッチにありがとう)
アジア・チャンピオンズリーグ(ACL)2014が開幕。2008年を最後にJリーグ勢の優勝が遠のき、今年こそはと(毎年ではあるが)、出場各クラブが意気込んでいる。先陣をきったサンフレッチェ広島とセレッソ大阪がドロー発進。ベストでは無いがベターな結果となった。
過去この大会(前身のアジアクラブ選手権優勝ジュビロ磐田を除く)で優勝したのは、ガンバ大阪と浦和レッズの2チームのみである。
2007年11月14日、奇しくも埼玉県民の日にJリーグ勢で初めて浦和は初出場でアジアの頂点に立つという偉業を成し遂げた。浦和、埼玉県民の多くがこの偉業に歓喜した。
元ブラジル代表ワシントン、ドイツの名門レヴァークーゼンから加入したロブソン・ポンテ、小野伸二、長谷部誠、細貝萌、阿部勇樹、闘莉王などそうそうたるメンバーがこの中心だった。しかし、その中に影の立役者と言える人物はいなかった。
トミスラフ・マリッチ。
ドイツ出身の元クロアチア代表FWである。
彼はACLどころか、2007年に浦和には在籍していない。彼が浦和に在籍したのは2005年の夏からその年の12月31日までのたった半年だった。
そんな彼が浦和を去った後どうしているのかずっと気になっていた。そして、ひょんな事からドイツのVfB シュトゥットガルト(日本代表DF酒井高徳所属)でアシスタントコーチをしていることを知り、どうしても言いたかった一言を言うためだけに私は彼を訪ねた。
マリッチといえば、それまで絶対的エースとして君臨していたFWエメルソンが突如中東へ移籍。FWを必要とした浦和は、一度はテストで落としていたマリッチをポンテと共に獲得した。
長い髪を後ろで結え、端正な顔立ちのクロアチア人は、その風貌から「サムライ」と呼ばれ、サポーターの心を掴むのに時間はかからなかった。
しかし、FWとして獲得したからには必要なものはゴール。前FWエメルソンの得点力が凄まじいものだっただけに、ゴールの少ないマリッチへの期待は徐々に薄れてしまった。リーグ戦での成績は13試合8ゴール、ナビスコカップは3試合で0。途中、尾骨骨折や、FW田中達也の離脱により負担が増えた不運もありゴールを量産するまでには至らなかった(それでも、2試合に1得点は充分だと思われるが)。
結局、当時の代表犬飼基昭氏から「華がない」「爆発的な攻撃力がない」等の理由で最終節を待たず契約の満了が決まった。
12月になると、翌シーズンの事もありJリーグ各クラブは選手に解雇などの通知を言い渡さなければならない。そのため、12月に行われる天皇杯でのモチベーション維持はかなり難しい。特に外国人選手はクリスマス休暇もあり、治療と称し帰国する選手も少なくない。
しかし、その中でクロアチアのサムライは既に来季の契約がないと知りながら、獅子奮迅の活躍を見せたのである。
天皇杯5試合6得点。さらに全試合得点という離れ業までやってのけた。彼の活躍によって、浦和はJリーグが発足して以来、初めての天皇杯を手にする。同時に2007年のACL出場権を獲得した。
2008年まで天皇杯優勝チームには、「翌々年」のACL出場権が与えられていた。そのため、浦和は2006年に確かにリーグを制覇し、同様に出場権を獲得しているが、その前に出場権を得ていたことで1年間の準備期間を設けられたのである。
つまりACL初出場で初優勝という結果は、このマリッチによってもたらされた天皇杯優勝のおかげと言っても過言ではないだろう。
そんなマリッチに練習後声をかけてみた。私が「浦和レッズを覚えているか?」と聞く前に、持っていたユニフォームを見るや否や「オー、ウラワレッドダイヤモンズ!ナイス」と聞くまでもなかった。
そして、緊張して「浦和から来たんだ。長い間ずっとあなたに“ありがとう”と言いたかったんだ。なぜなら、天皇杯であなたは多くのゴールを量産してくれた。そのおかげで浦和は優勝できたんだ。本当にありがとう」と言うと、目を細めながら「Schöne Zeit(素晴らしい時間だった)」と嬉しそうに答え、「アリガトウゴザイマス」と日本語で話した。たった半年しかいなかった上にすでに7年が経過しているが日本語を話してくれたことに嬉しくなってしまった。
最後に「いつか、浦和に監督として戻ってきてください」と伝えると、笑顔で「もちろん、よろこんで」と言ってくれた。そして「マタ、アシタ」と再び日本語で別れを告げた。
シュトゥットガルト自体が現在降格争いの厳しい状況にある中で、彼も厳しい立場にある。ピッチ上では、相変わらず熱く指導、そして監督からの指示を送っているが、ピッチ外では優しく、紳士な態度でファンと接している。
いつの日か浦和で指揮を執る異国サムライの姿が見られるかもしれない。(了)
と、コラム風に書いてみました。
ド・素人なので読みにくいと思います。
ごめんなさい。
まあ、単純にファンとしてマリッチに会いに行ってきたよってだけです(笑)
そして、あまりの緊張で言いたいことの半分(肝心のACL優勝できたよって)も言えなかった・・・・・・orz
でも、7年越しにお礼が言えて満足でした。
過去この大会(前身のアジアクラブ選手権優勝ジュビロ磐田を除く)で優勝したのは、ガンバ大阪と浦和レッズの2チームのみである。
2007年11月14日、奇しくも埼玉県民の日にJリーグ勢で初めて浦和は初出場でアジアの頂点に立つという偉業を成し遂げた。浦和、埼玉県民の多くがこの偉業に歓喜した。
元ブラジル代表ワシントン、ドイツの名門レヴァークーゼンから加入したロブソン・ポンテ、小野伸二、長谷部誠、細貝萌、阿部勇樹、闘莉王などそうそうたるメンバーがこの中心だった。しかし、その中に影の立役者と言える人物はいなかった。
トミスラフ・マリッチ。
ドイツ出身の元クロアチア代表FWである。
彼はACLどころか、2007年に浦和には在籍していない。彼が浦和に在籍したのは2005年の夏からその年の12月31日までのたった半年だった。
そんな彼が浦和を去った後どうしているのかずっと気になっていた。そして、ひょんな事からドイツのVfB シュトゥットガルト(日本代表DF酒井高徳所属)でアシスタントコーチをしていることを知り、どうしても言いたかった一言を言うためだけに私は彼を訪ねた。
マリッチといえば、それまで絶対的エースとして君臨していたFWエメルソンが突如中東へ移籍。FWを必要とした浦和は、一度はテストで落としていたマリッチをポンテと共に獲得した。
長い髪を後ろで結え、端正な顔立ちのクロアチア人は、その風貌から「サムライ」と呼ばれ、サポーターの心を掴むのに時間はかからなかった。
しかし、FWとして獲得したからには必要なものはゴール。前FWエメルソンの得点力が凄まじいものだっただけに、ゴールの少ないマリッチへの期待は徐々に薄れてしまった。リーグ戦での成績は13試合8ゴール、ナビスコカップは3試合で0。途中、尾骨骨折や、FW田中達也の離脱により負担が増えた不運もありゴールを量産するまでには至らなかった(それでも、2試合に1得点は充分だと思われるが)。
結局、当時の代表犬飼基昭氏から「華がない」「爆発的な攻撃力がない」等の理由で最終節を待たず契約の満了が決まった。
12月になると、翌シーズンの事もありJリーグ各クラブは選手に解雇などの通知を言い渡さなければならない。そのため、12月に行われる天皇杯でのモチベーション維持はかなり難しい。特に外国人選手はクリスマス休暇もあり、治療と称し帰国する選手も少なくない。
しかし、その中でクロアチアのサムライは既に来季の契約がないと知りながら、獅子奮迅の活躍を見せたのである。
天皇杯5試合6得点。さらに全試合得点という離れ業までやってのけた。彼の活躍によって、浦和はJリーグが発足して以来、初めての天皇杯を手にする。同時に2007年のACL出場権を獲得した。
2008年まで天皇杯優勝チームには、「翌々年」のACL出場権が与えられていた。そのため、浦和は2006年に確かにリーグを制覇し、同様に出場権を獲得しているが、その前に出場権を得ていたことで1年間の準備期間を設けられたのである。
つまりACL初出場で初優勝という結果は、このマリッチによってもたらされた天皇杯優勝のおかげと言っても過言ではないだろう。
そんなマリッチに練習後声をかけてみた。私が「浦和レッズを覚えているか?」と聞く前に、持っていたユニフォームを見るや否や「オー、ウラワレッドダイヤモンズ!ナイス」と聞くまでもなかった。
そして、緊張して「浦和から来たんだ。長い間ずっとあなたに“ありがとう”と言いたかったんだ。なぜなら、天皇杯であなたは多くのゴールを量産してくれた。そのおかげで浦和は優勝できたんだ。本当にありがとう」と言うと、目を細めながら「Schöne Zeit(素晴らしい時間だった)」と嬉しそうに答え、「アリガトウゴザイマス」と日本語で話した。たった半年しかいなかった上にすでに7年が経過しているが日本語を話してくれたことに嬉しくなってしまった。
最後に「いつか、浦和に監督として戻ってきてください」と伝えると、笑顔で「もちろん、よろこんで」と言ってくれた。そして「マタ、アシタ」と再び日本語で別れを告げた。
シュトゥットガルト自体が現在降格争いの厳しい状況にある中で、彼も厳しい立場にある。ピッチ上では、相変わらず熱く指導、そして監督からの指示を送っているが、ピッチ外では優しく、紳士な態度でファンと接している。
いつの日か浦和で指揮を執る異国サムライの姿が見られるかもしれない。(了)
と、コラム風に書いてみました。
ド・素人なので読みにくいと思います。
ごめんなさい。
まあ、単純にファンとしてマリッチに会いに行ってきたよってだけです(笑)
そして、あまりの緊張で言いたいことの半分(肝心のACL優勝できたよって)も言えなかった・・・・・・orz
でも、7年越しにお礼が言えて満足でした。