入院4日目 診断名が確定 | 三女は卵黄嚢ガン闘病~寛解。パパは走り続け、親父の背中を見せる!

三女は卵黄嚢ガン闘病~寛解。パパは走り続け、親父の背中を見せる!

フライフィッシングとウルトラマラソンにハマったパパの娘が、2015年11月に卵黄嚢腫瘍と診断、闘病を経て2016年4月に寛解。ガンと闘いながら走り続ける我が家の話。少しでもどなたかのお役に立てれば。

手術の晩はほとんど眠れませんでした。
散々泣いて疲れているはずなのに
色々なことを考えてしまい眠れません。

明け方少しうつらうつらして朝になりました。

11時前に病院に到着。
導尿カテーテルは抜け、車椅子にてトイレに行く生活に戻っていました。
術後の傷も痛いらしく、少し動くのも辛そう。
親が到着する前に、自分の体から出ている管の説明を受けていたらしく
お腹のドレーンについて色々と聞いていました。
腫瘍からの血を抜いているため、真っ赤な血でしたが
本人はけろっとしていて、少し安心しました。

やはり7歳児、回復は早いらしく
お腹すいたとのことで、お昼はポテトサラダとトマト、オレンジを少し食べました。


私はお昼過ぎから長女と二女の授業参観があり
一度病院を出て、小学校に向かいます。

小学校では、三女の担任と少し話した後
同級生のみんなから「なんで来ないの?」と聞かれ、言葉に詰まりました。

長女と二女の授業参観は無事に終了。
この時点では同級生の保護者等には全く説明していませんでしたので
私が行って正解だったかも。嫁さんなら「どうしたの?」とかママ友に聞かれていましたね。

授業参観後、再び病院へ。

16時からは担当医から術後の説明がありました。

担当医は手術を執刀した小児外科医ではなく
血液・腫瘍科のドクター。

摘出した細胞を迅速検査し、診断名が確定したとのこと。

すでに前日ある程度のことを聞いていたので
心の準備はできていました。

「右側卵巣原発 胚細胞性腫瘍 卵黄嚢ガン(Yolk sac tumor)」とのこと。

腫瘍も大きく現時点では摘出できないため
抗がん剤による化学療法を先行し
腫瘍が小さくなった時点で摘出するとのこと。

抗がん剤はとりあえず1~2クール実施し、
(1クール1か月程度)
摘出手術
そして3~4クール実施で、半年以上の見込み。

そして転移の有無を確認するため
明日から腹部MRI、胸部CT、頭部MRI、骨シンチグラフィー検査を
3日間かけて実施するとの説明でした。

抗がん剤の治療としては1クールとして
3~5日間投与し、血液検査結果にて安定していたら一時外泊
10日~14日程度で副作用の骨髄抑制が始まり、
投与から3週間程度でまた外泊という流れとのこと。

今のところの治療法は
JEB療法(カルボプラチン、エトポシド、ブレオマイシン)の予定と。

シスプラチンという製剤もあるけれど、副作用が強いため
カルボプラチンを用いる可能性が高いとの説明でした。

検査を12月2日~4日まで行い、検査結果後
早ければ5日(土)または7日(月)から始めるとのこと。
非常に分かりやすい説明で理解できました。

あとは本人にどう説明するかというのが問題。
とりあえず今日のところは検査があることを伝えて、上の娘対応のため嫁さんは帰宅。

私一人残りましたが、まあ機嫌が悪い。
ママがいないので、トイレは看護師対応。

お昼にベッドからトイレが間に合わず下着を汚してしまったことから
車椅子からベッドには移動できないまま眠ってしまいました。

頻尿は続いており
ウトウトしたかと思うとトイレ。
本人も傷の痛み、腫瘍の痛み、熱(39度近く)、トイレにより
不安が強かったようでシクシク泣いていました。

こんな時父親として何ができるのか。
一緒に泣くわけにいかないし
とりあえず痛みを紛らわせるため、足をさすっていました。

寝たかなと思って手を離すと
泣きながら「足をスリスリして~」と甘えてきて

なんて愛おしい、と思いながらスリスリしていました。

21時の消灯まで付き添い、帰ることを伝えたところ
最後のトイレを済ませてベッドに移動しました。


初めての手術
お腹も痛く、本当に不安な夜だったと思います。


病院からの帰りは一人で運転でしたが
よく無事で帰ってこれたなと、今更ながら思います。

一人だったので前が見えないほど泣きじゃくっていたし
胸というか心臓みたいなところを
強い力でギューっと締め付けられている感じでした。


今思い出してもあの帰りはきつかったです。




12月12日(日)
金曜日夜から外泊の許可が出て、2泊3日で帰ってました。
まだ副作用もほとんどなく、食べたいものを食べたいだけ
したいことをしたいだけさせて、笑顔で病院に戻りました。
少し安心しました。




にほんブログ村