ひよこのじたばた -6ページ目

ひよこのじたばた

メカ好きが、
ゆるゆるブログやってます。

いざ、口頭試問になると
いやびっくりしました、なんとか喋られるもんですね。
ドリンク剤のせいか?(‐^▽^‐)

多少の設問の取り違いはありましたが途切れることなく
回答ができたはずです。

高校時代の恩師、國分先生の言葉をふと思い出しました。
「やっぱり3年間も同じ勉強を続けていれば溜まってくるものってあるもんなんですよ。」

時に投げやりになる事もあったけど、続けて良かったです!!

元気にしていらっしゃるんでしょうか、現在は退職されたとのこと。


無事試験に合格し、束の間の休息。
すぐ実家には戻らず彼女のもとへ。

就職するとしばらくは会えないのでゆっくりと過ごすことに。

儚い夢が花と散る事も知らずに、、、、、




苦しかった学生時代もようやく終わりました。
今後さらに本当の自分と向き合い、苦しみ悩み決断をする事が
どんなに重要なのかは知る由もこの時はありませんでした。


ですがどんな結果にぶつかろうともその経験は無駄にならない事を
祈りたいです。この2年間が決して無駄じゃなかった。
そう思えるよう、改めてブログに綴る事にします。

学生編はこれでおしまい、社会人編に続きます。
北陸が一面雪に包まれる頃。

私は天候さえよければ自慢のバイクで
毎週末彼女のもとへ。

ろくでなしの青二才ながら、私は近い将来
彼女と人生を共にしたいと強く思うようになりました。

卒業してとにかく仕事に就こう。

具体的な目標を見つけ歩み始めた冬。



卒業間近、とある使用事業に内定。

※航空機使用事業とは、
  航空法第2条第21項の↓
他人の需要応じ、航空機を使用して有償で旅客又は
貨物の運送以外の行為の請負を行う事業をいう。


エアライン以外の航空会社という事ですね。

正直、内定の日付が遅すぎるので廊下に張り出さないでほしかった。

もっと言うなら内定の日がもっと速かったはずなのに、
後から決まったやつと同じ日、しかもそいつより順番が後。

名前順でも私のほうが先なのに。

事実上のその年の卒業生の一番最後という屈辱。
なんというかこう、どうでもいい事なのにすごく気分が悪かった。(笑)



卒業式を迎え、無事に証書授与。
一度はあきらめた結果を今手にしている。

そんな実感を持ちつつ、実地試験受験組は
能登の地に数週間留まります。

2週にわたる実地試験は
前半の1週間は基本技術
後半は機体の知見及び技術。

当日の試験が始まる90分前にアリナミンを飲みほし
試験に挑みました。

彼女から誕生日にもらったブレスレットも忘れず装着。

↑実はこれかなりのラッキーアイテムで今も重宝してます

結果は12人中9人の合格、3人は再審査。

もちろん私一発合格でございます!!

でも当日はひやひやしたもんです。

汗ばんだ体に風が涼しい、夕暮れに虫の鳴く季節。

続々と内定者が廊下に掲示される中、
自分の名前はどこにもない。


焦りもしくは嫌悪感、ある意味失望感と言おうか後ろ指を指されているような
被害妄想にとりつかれる日々。

内定者が次々とYS-11の試験対策に本腰を入れる最中
無気力な自分。

「なるほど!こうなってたのか。」という同期の声を盗み聞きする。

なんてことない、2年次にやった内容じゃないか。
なんで今さら理解したんだ。
その程度で企業内定貰ったのか!!

日を追うごとに卑屈になる自分自身。

唯一の楽しみは、大して味も分からぬ酒を
夜な夜な体に流し込む事。

その一瞬だけが嫌な事を忘れられる時間でした。
もちろん寮内は禁酒です(笑)

後輩に呼ばれて赤い顔しながらYS-11のシステムを
解説した事もありました。

「出来上がってるのに先輩よく頭から(知識)出てきますね。」
↑後輩によく言われました(笑)

後述しますが、飲んで遊んで
「なんでそんな余裕で(実地試験)合格したんすか?!」
半ばキレ気味に後輩に言われたこともあります(笑)


先の見えない日々過ごす中。
私ごとではありますが、ささやかな幸せが訪れるのでした。

半袖では少し肌寒い、いわゆる学園祭の季節。

私は自慢の一眼レフで広報記録という
おいしいポジションで仕事をしておりました。

広報記録という大義名分の下
学園内を自由に闊歩。

来場者にパンフを配り、写真をパチリ。

見慣れない出で立ちのかわいらしい女性が二人。
なんでも隣の能登空港で同時開催している祭の
よさこい踊りの踊り子とのこと。

写真を送るからといって、連絡先を交換。

しばらくしてからその一人とお付き合いをする事に。

とても献身的で、褪せた日常を彩る素敵な女性でした。

刺すように風が冷たくなる季節私は勉学を忘れ毎週末
彼女のもとへ。

いつしか、彼女の存在が強く自分を能登の地に留まらせる
理由になるとは思ってもいませんでした。

彼女のために、二人の為に。
そんな気持ちにさせてくれた彼女には
またいつか感謝の気持ちを届けたいです。


全身全霊を込めて無情の感謝を。



事を決めてからは動きが速いのが私の性格。

家族都合で忌引きを申請し
週末に都合よく部屋の相方が遠出している隙に
部屋の荷物を段ボールにまとめ、教科書をゴミ捨て場へ。
そしてホテルに一泊。

月曜の朝に退学届を提出しバイクで能登を去るつもりでした。

私立の学校ですから案の定ひきとめが入ります。
とにかく1日寮に戻って頭を冷やせと言われましたが、
「寮に荷物はありませんすべて送りました。」
そういうと、教官陣は唖然 急遽当時の担任の家に泊まることとなりました。

その日の夜は良く面倒を見ていただいた担任と
大変お世話になった電装の講義をしていただいた教官と
3人で祝杯をあげることになりました。

「新たな門出を祝って、乾杯!」
意外にもまだまだ未熟な私を叱る事も諭す事もせず、ただひたすら
私の意志を尊重し背中をそっと押して頂きました。

翌朝、担任と共に用紙を受け取りに学校へ。

手にしたものは届ではなく、まっさらな履歴書と求人票でした。

昨晩の祝宴で得たものはやめる事はいつでもできるという、
選択肢だったのです。

この選択肢一つで今後私自身の人生がどれほど救われた事か。

二年次の冬、とうとう念願の第一志望先の採用が解禁されました。
半ばあきらめかけていた道が再び明るくなった一報でした。


最終学年である三年次に進級もつかの間、いよいよ採用試験に臨みます。

結果は一次不合格。

採用担当の方からはクレぺリンの結果が芳しくなく
上に書類を上げられないとのこと。

受験後の早朝、直接私の携帯に電話がありました。


寝ぼけた頭ではすぐに理解できず、きっと何かのまちがえだろう
夢のはずだ、そうつぶやいて寮のベッドで2度寝をしました。

当時リーマンショックの後遺症で原油価格の不安定や
東日本大震災後の自粛ムードと相まって就職氷河期
と呼ばれる時期で、例年に比べ就職間口は狭く
受けたくても受けられる会社がほとんど残っていなかったのです。

数日後、とある教官に呼ばれて夕方のエプロンにむかいました。
言われた事はざっくりと2点。

不合格に対して気持ちの切り替えが出来ていない。
私自身が心を閉ざしているため、クラスメートの大半となじめていない。

そのため今後は自己流ではなく教官の言うとおりに学生生活を過ごしてみてはどうかと提案を受けました。


「そんな事を言われるくらいなら。」   ここに留まる必要はない。
学校にいる意義を失った瞬間でした。

狎れあうため、友達作りに来たわけではないのだから。


ひきつった笑顔でよろしくお願いしますと頭を下げつつ、
胸の内で退学を決意しました。