学生時代3〜4年生を故郷、静岡県の学生寮、文京区の富士寮で過ごしましたが、4年生の後半、もう単位も取り終り、卒業研究や卒業設計の目鼻も立ち、ほっとすると、朝はゆっくり、午前中から昼寝、つい、ついになってしまいます。
そこで思い立ったが吉日、新聞の朝刊配達をと近くの朝日新聞音羽販売店に行ったら、翌朝からと、いきなり5時はちょっと面食らいましたが、やるしかありません。
当時はバイクなどではなく、起伏の多い文京区は自転車も無理。
新聞もまとまるとかなり重く音羽通りの裏道を配達しながら抜け、江戸川橋を渡るとそこは新宿区。堀沿いにその裏手を配達して石切橋を渡り、一気に音羽の高台、当時の小日向台町へ駆け登り、音羽御殿(元鳩山首相の豪邸で、現鳩山会館)の裏側を通り、鴎外の作品「鼠坂」にも出て来る有名な鼠坂を下り、販売店へ戻ります。
この鼠坂は鼠しか通れまいと言うことから名付けられたと言うだけあって、ものすごく急で、細く、長い坂です。雨の日は滑るし…。
新聞配達って意外と大変なんです。苦手は雨、風、5階建ての都営住宅と坂道、そして猛犬です。当時は5階建てまではエレベーターが無くて、またポストの無い家も多く、有っても小さな物ばかり、仕方ないので、そのころは大体木造の引き違い戸でしたので、このスキマにシュッと挟み込むのです。慣れるまでは中々大変でした。
雨が降り濡れれば破れるし、風が吹けば開いてしまい始末が悪いものなんです。その上、起伏の多いコースでした。でもそれなりに中々工夫もされていて、高台に登るのは新聞が少なくなる最後の行程になっていました。
私のコースは最後が音羽御殿の裏側、つまり山の上。鳩山さんちにも投函して、前出の鼠坂を一気に駆け下り販売店に到着。
破れているなどとクレームが来ていると、それっと1枚持って駆けだします。
ある日、江戸川橋で信号待ちしているとパンのトラックが寄って来て新聞と換えっこしようと言うのです。どちらも万一用に若干の予備分を持っているのです。お腹が空いていましたから大変おいしく、あのアンパンの味は今も忘れられません。
配達のコースには極く庶民の家々の街から高級豪邸まである所だったのですが豪邸街では絶対無かったことですが、低い裏通りを配達しているとおばさんがご苦労様と言ってノートや鉛筆を下さることがあるのです。当時内職と言って朝早くからカタコトカタコトと音を立てながら、靴紐の金具付けや、ハトメ打ちをしているのですが、そうして頑張ったお金で買ってくださるのです。今なお有難いことと記憶しています。そういう方達は人の大変が分かるのですね。
なお、82才の今でも足腰が非常に強く、毎日8000歩のウォーキングに平気で耐えられるのはこのときのお陰かもと思います。
書き切れませんが、新聞配達には学生時代や、その後の人生では出会えなかった小さな数々の思い出と学びが詰まってます。
鼠坂。 音羽御殿の裏側。
イメージが違う程、立派になっています。 ここだけは当時のままです。
現在の音羽通り。
音羽名画座もお風呂屋さんも、新聞店も今は無く、
想像も出来ない程に変っています。