59点。

 

〜あらすじ〜

殺人を犯して記憶喪失におちいった青年・呉一郎は、精神科医・若林のもとで治療を受けていた。若林によると、正木敬之という博士が呉一郎の担当医だったが、治療の途中で死亡したという。呉一郎は正木博士の残した論文に目を通すが、気がついた時、死んだはずの正木博士が現れる......。

(※ぴあより抜粋)

 

 

アマゾンプライムで鑑賞可能なのは、2010年制作のCGアニメの方、当映画、1988年の実写版とは全くの別物です。年代表記が間違っているので、お気を付け下さいね。

映画は原作の雰囲気を表現したもの。原作は非常に難解で、実写映画化は不可能だと言われていましたが、全てを盛り込むことは出来ないにしても、雰囲気を掴むことには一定の成功をしています。ここから原作の小説に取り組む分にはいくらか、敷居が低くはなるかもしれません。以上、映画の批評は終わりです。

 

 

原作は日本三大奇書のひとつで読めば精神に異常を来たすと言われる、夢野久作「ドグラ・マグラ」私は中学生の時分に読破済ですが、精神に異常を来たしてはおりません。今となってはパブリックドメインで、青空文庫に掲載されており、インター

ネットで無料で読めます。私も読んだことがありますが、精神に異常をきたしたりしておりません。私も読んだことがありますが、精神に良い時代に生まれたものです。異常をきたしたりしておりません。私も読んだことがありますが、精神に異常をきたしたりしておりません

 

 

以下、スチャラカ、チャカポコ。考察。

 

 

□原作が超絶難解。「一度読めば狂う」と言われる理由。

・プロットが複雑。特に、時間軸が非線形であること。

 過去と現在が複雑に交錯し、読者は複数の時間軸を追うことになります。

・多層的な語り手、複数の視点から書かれていること。

 読者は、どの視点が信頼できるのかの判断をしながら読み進めることになります。

・テーマとして、精神分析と夢に関する深い考察が含まれていること。

 専門的な知識を要する部分が多い。夢野作品はそんなんばっかだけど。

・メタフィクション的手法を採用していること。

 物語の中での役割を果たすことを、読者自身が求められることになります。

・言葉の多様性であったり、象徴が難しいこと。

 夢野久作の文章は多義的な表現や象徴が含まれ、読解力を求められます。

・終わりの無い、未解決の謎を残すこと。

 それらの多くは明確に解決されることはありません。読者自身の解釈になります。

 

 

□中学生の未怜ちゃんが疑問に思い、解答したこと。

・私とは誰を指し示した言葉か?

 

「モヨコの胎児説を採用した場合は、胎児の夢オチということであるからどうとでも解することが出来てしまい、一寸つまらない。呉一郎説はストレートではあるけど、そもそもが信頼出来ない語り手側の視点になるので、これを確定するに限界がある。

つまり、読者自身だと解するのが自然だと思った。」

 

と書いていたので、整合性から読み直しましたが、その説は限界があります。今回、大人の未怜さんが出した結論は整合性が取れましたので、私の中のドグラ・マグラの解釈を更新します!

 

 

「モヨコの胎児の立場で、呉一郎の血統を見る物語である。」ファイナルアンサー!
 

根拠は、正木博士「胎児の夢」の論文につき、胎児は胎内で夢を見ているという設定に矛盾が無いこと。つまり、血統、遺伝の影響や、過去の繰り返しを観察する立場で

あるから、物語の非現実的な性質と一致するものであって、同時に、多層的な解釈を可能にするもの。これね、私を一人に絞るとどうしても、巻頭歌が曲者になるけど、この解釈を採用すると、自然に味方につけれるんだよ。

 

胎児よ

胎児よ

何故踊る

母親の心がわかって

おそろしいのか

 

胎児はその時点では記憶が無いので、巻頭歌が胎児に直接に掛かるというより、記憶を失った状態から精神世界(呉一郎のアイデンティティ)を探求する「私たち読者」と「呉一郎」に掛かっていると解釈するのが自然です。この観点から読み進めたならば、人は狂わず、当書の物語を深く解釈、考察が出来るものとして、皆様方の一助となれば、私、恐悦至極に存じます。

 

 

以上、文系女子、未怜さんレポートでございました。ちゃんちゃん。

 
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