30代の転職(再掲) | 出会いはフローテーション♪

30代の転職(再掲)

転校、転職したことある? ブログネタ:転校、転職したことある? 参加中

若干加筆しました。

あれは5年ちょい前のことでした。
10年以上働いていた会社がつぶれ、長年付き合ってた人にも去られ、途方にくれてた時。
退職金はたった20万円。失業給付金もらいながらのんびり・・・と言う訳にはいきませんでした。
私には借金があったので。

30歳過ぎてからの就職先は、なかなか見つかりませんでした。
会社は未経験なら若者(できれば女性)を、中高年なら即戦力を望みました。
学生時代に取った資格、会社が危ないと知って取りにいった資格は全くのムダでした。

とりあえず生きていかなければならないので、私は深夜のバイトを探しました。
そして、デリヘルのドライバーになりました。
他に仕事をしていなかった私は早番(昼12時以降)になりました。

ネットで調べると、風俗の店員は拘束長くて安月給とか、すぐに鉄拳制裁とか書かれてて不安になりましたが、幸いにも理不尽な扱いは受けませんでした。
ただ、入社時に「会社の金と女に手を出したら罰金100万」なんて念書にサインさせられてビビりました。

仕事自体はわりと楽しかったです。
ただ、「ずっとこのままなんだろうか」と言う不安はありました。

あれは日曜日の夕方4時過ぎでした。
いつものように女性をラブホテルへ送り、駐車場でラジオを聴きながら待機していました。
笑福亭鶴瓶さんの番組。
彼は元々「あのねのね」が4人のころのメンバーで、フォークシンガーとの交流が多々ありました。

流れてきた曲に私は泣きそうになりました(ラブホの駐車場でね)。
うちに帰ってから番組HPで曲を確認したところ、三浦久 さんという長野県在住の方のインディーズの曲でした。
早速彼のHPでCDを買い、掲示板に上記のことを書き込んだところ
「デリヘルドライバーという職業、初めて聞きました。」
とのお返事をいただきました。アーチョイナチョイナ♪


ミン・オン・トゥイーのバラード 1994年 (クリックすると聞けます)

ぼくの名前はミン・オン・トゥイー
ミャンマーからの留学生
しばらくの間 ぼくの話に
耳を傾けて欲しい

去年の春 ぼくは
信州大学に入学した
雪をかぶった日本アルプスが
とてもきれいだった

思い返せば昔のこと
ぼくはベルギーへ行った
化学兵器の研究のため
政府から派遣されて

来る日も来る日も没頭した
毒ガスや細菌の研究に
素早く効果的に人を殺す
化学兵器ををつくるために

ベルギーへ行って2年目の夏
遅ればせながら気がついた
政府はぼくが作る化学兵器を
国民に向けるだろうと

ぼくは何日も考えた
こんなふうに生きて行きたくないと
そしてついに決心した
国へもどることを

ぼくの父は元軍人で
政府の高官だったが
政府のやり方に嫌気がさし
密かに活動を始めていた

ぼくは政府の方針に逆らい
勝手に帰国したかどで
刑務所にぶち込まれ
毎日取調べを受けた

そのうち大規模な民衆運動がおこり
国は無政府状態におち入り
全ての政治犯は釈放された
ぼくもその中のひとりだった

このまま国に残ることは
あまりにも危険だった
ぼくは日本へ行くことを決め
東京の日本語学校に入った

その間に国の名前は
ビルマからミャンマーに変わり
軍事政権が樹立され
銃口を国民に向けた

ぼくには三人の弟がいたが
一番下の弟は
おととし反政府デモの最中に
撃ち殺された

それからひと月もたたないうちに
母は病に倒れ
悲しみのうちに息を引きとったと
父の手紙が伝えてきた

どうしたらいいかわからなかった
でも国へ帰ることはできなかった
死んだ母や弟を思い
辛い日々が続いた

日本語もかなりわかるようになったし
しばらく日本にいるのなら
日本の大学に入学して
勉強したいと思った

去年の春 静岡大学と
信州大学に合格した
どっちがいいか日本語学校の
先生に相談した

「君はミカンとりんごの
どっちが好きか」と彼はきいた
ぼくが「りんごです」と答えると
「じゃあ信州大学だ」と彼は言った

四月になり、学校が始まり
ぼくは松本へやってきた
山に囲まれた美しい町
心に平和がもどってきた

去年の6月 父と弟たちは
イギリスへ亡命した
ぼくは彼らに会うために
夏休み イギリスへ行った

彼らはバーミンガム郊外の
小さな家に住んでいた
かばいあい 身を寄せながら
ひっそりと生きていた

忘れもしない 8月3日
ぼくはひとりでドライブに出た
グラスゴーへ向かう田舎道
トラックに追突された

車が川に落ちる前に
ぼくはなんとか飛び降りた
薄れゆく意識の中で
走り去るトラックが見えた

気がついた時 ぼくは
病院のベッドに横たわっていた
大腿部骨折 頭部打撲
全治3ヶ月だった

父と弟たちが知らせを受けて
あわてて病院へかけつけた
父はぼくの手を握りしめ
「しっかりしろよ」と言い続けた

彼らはその晩もどって行ったが
決して家にはたどりつかなかった
車に仕掛けられた爆弾が
彼らを吹き飛ばした

一年足らずの間にぼくは
家族をみんな失った
なぜ父が母が弟たちが
殺されなければならなかったのか

ぼくにはどうしてもわからない
なぜ人と人が殺し合うのか
多くの生命が失われた
主義や正義のために
ベトナム アフガニスタン カンボジヤ
南京 アウシュヴィッツ クロアチア
多くの生命が失われた
主義や正義のために

りんごが赤く色づく頃
ぼくは松本へもどってきた
日本アルプスはまた雪をかぶり
空は透きとおるように青かった

最後にひと言 日本政府に
言っておきたいことがある
ミャンマーの軍事政権は
日本のODAが支えていることを

ぼくの名前はミン・オン・トゥイー
ミャンマーからの留学生
ありがとう ぼくの話を
最後まで聞いてくれて


この詞は実話だそうです。
「世の中にはこんな人もいるんだ。俺も頑張らないと。」

結局、前職と同じような内容の職場に就き
こんな格好や、

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こんな格好をしています。

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職種を聞くのは野暮というものです。