10月12日
父のすぐ下の弟である叔父が亡くなりました。
13日に訃報を受け
14日に新潟へ向かい、通夜に参列、そして15日の昨日は告別式でした
私は昨日の夜帰宅し、いただいてきた引き物を開けると、一通の手紙が入ってました。
『お父さんと一緒に歩んだ人生は幸せでした』
東京で生まれ育った夫が新潟出身の私と結婚し、義父の故郷でもある新潟に引っ越してきたのは20年前のこと。美しい風景を捜してはカメラに収め、夕方になると今度は釣り竿を担いで川へ懸命に働きながらも、越後の豊かな自然を満喫していました。
大好きな花や野菜を丹精込めて世話をし、畑で過ごす夫の姿も懐かしく想い出されます。
すてきな仲間にも恵まれた夫、釣り大会で釣った鮎を我が家の庭で焼きながら、会社の方々と酌み交わすお酒の味は、また格別だったようです。
平成23年10月12日、夫は享年75歳を以って生涯の幕を閉じました。
時に、子どもたちに飛んだゲンコツも、いまとなっては笑い話です。
癌が発覚し医師に入院を勧められた夫の自宅がいいという希望を叶えるため
家族皆で力を合わせ看病してまいりました。
最後まで頑張ってくれた夫に感謝と労いの言葉を捧げ、爽やかな秋空の彼方へ見送りたいと思います。
妻 ○○
(叔母)
新潟にいるとき、叔母が話してくれたことがあります。
私は結婚しておこられたことがないのよ、だからケンカもしたことがないの。
どこかに出かける時は
「お~行っておいで。楽しんできなさい」っていつも行ってくれてた。
子どもたちが反抗期の時、お父さんが子どもたちに言った言葉は「お母さんだけには心配かけるな。悲しませることをするな」だったそうです。
親戚約30名近く集まり、全員が叔父の家に泊まりました。
みんな遠くからお父さんの為に来てくれてるのだから、全員一緒に泊まらせてあげたかった。
はる○の部屋は物あって狭苦しいかもしれないけど、お父さんの好きな部屋だったのよ。
(実際はちゃんと布団も3枚敷けました)
そんなことを
またまたキッチンで叔母とふたりになった時に話してくれました。
長男が喪主を務め、
地元に残る次男がすべてをしきる。
何か変更があれば、即叔母の耳元で伝える次男。
喪主の挨拶が合計4回。どうしても同じ挨拶になってしまうが、最後は自分の言葉で、思いを語ってくれた、長男。
世話しなく動き回る叔母。その中でも、人を立てる。
誰かが「○○やろうか?」って言ってくれた気持ちを踏みにじらない。
「大丈夫よ」ではなく「じゃお願いしようかな~」っていう。
すべてがそうであった
私を含め、私の従姉妹たち。いとこだけでも10人。うち6人で通夜の晩に飲み明かした。
叔母も参加し昔話に花が咲きました。
お酒は日本酒のみ。おちょこではなく、湯のみ。
新潟の血が入ってます。
ちょっと癖はあるけど、
これを知ってると通かな。
叔父からすると甥っ子、姪っ子。みんなそれぞれに叔父から怒られた記憶があり、怖い印象だったらしい。
私は怒られたことがない。だから、口数が少なく、温和な叔父だったという印象しかないのね。
前のブログでも書いたことがあるけど、叔父と叔母にとっては私は違ったみたいです。
初めて叔母がみんなに話してた
中越地震で被災にあい、この前の台風で近くの川の水が溢れ、床上浸水した
叔父が亡くなり、悲し気持ちは言うまでもないけど、
一言で表す《感謝》《幸せ》という意味を改めて教えてもらったきがします。
そしてもう一度、考え直しました。
私の考えや思いは
まだまだ甘いなと…
こんな叔父や叔母がいてくれて、私は幸せだと思います。
榮ちゃん、ありがとう
はるこさん、ありがとう
せっかくみんなが集まったから、二度とないこの機会を逃さない、楽しく過ごすことが、叔父も喜ぶことだと、叔母は言ってました
そうは言っても
なかなか出来ませんよ
夕べ家に戻って手紙を読んだ時
象の背中のアニメと
♪旅立つ日が浮かびました
どんなことがあっても
精一杯毎日を過ごす
精一杯っていうと、どこかで疲れてしまうようですが、それが普通に過ごすことができたらどんなに幸せだろう…
また、来月行ってきます

