舞台版『夜は短し歩けよ乙女』雑感
個人的には、アニメ版『夜は短し歩けよ乙女』はここ10年で最良のアニメ作品だったと思っている。あの疾走感、高揚感、そして寂寥感。ただ四つの季節を通り過ぎていくだけで、ただご都合主義の歌が流れるだけで、世界ってこんなにも素晴らしく彩り豊かなんだと思わせてくれる特別な作品だった。
『夜は短し歩けよ乙女』 90秒予告
アニメ版の脚本上田さんと原作の森見さんの間には浅からぬ因縁がある。『夜は短し~』以外にも森見さん原作の『四畳半神話大系』や『ペンギン・ハイウェイ』は上田さんがアニメ版の脚本を手がけているし、森見さんは森見さんで上田さんの戯曲『サマータイムマシン・ブルース』をもとに『四畳半タイムマシンブルース』を書いている。
そして今度は上田さんが自らのフィールド=演劇で『夜は短し~』に挑んだ。それがこの舞台版『夜は短し歩けよ乙女』だ。
コロナ禍でもあるし、ぼくは別の「黒髪の乙女」(love fruits的な…)に会いに大阪に行ってしまったから、こっちは映像化待ちだったのだけれど、ありがたいことに千穐楽がライブ中継されることになった。
先輩役の中村さん、乙女役の久保さんは共に遠目から見た印象はイマイチぼくの想像する2人とは違った(久保さんはたぶんイラストに合わせてウィッグだったのかな。画的にはそのままやっても良かったと思う)。ただ、発声は素晴らしい。やっぱり役者の演技の半分(当社比)は声だからそこに説得力があると作品世界に引き込まれていく。
この作品はズンズンと歩いていく乙女の前のめりな駆動感をどう表現するかが勝負だと思う。小説は常にページをめくることで進んでいくし、アニメは常にカメラを動かすことができる。そこへ行くと演劇というのは基本的にスタティック(静的)な芸術だ。その場を動くことはできない。
「移動性コメディ」と称されたヨーロッパ企画の『ロベルトの操縦』はロベルト(兵器)に乗ってつねに動いていくお芝居だった。流れていく雲を背景に映すことで移動を表現していたけれど、それは砂漠が舞台で大道具的なものが(ロベルト以外に)必要なかったからこそ可能な表現だった。
(あるいは西田シャトナーさんの『弱虫ペダル』みたいな方法論もあるだろうけれど、それも結局は大道具を必要としないロードレースだからできることで)
京都の街が舞台のこの作品でそうした方法は使えない。中央にメリーゴーランドのような回転式の大道具を置いて場面転換を図ったり、古本市の屋台を可動式にしたりと、色々と苦心の跡が見えた。『ロベルト』でも使った流れる背景を映す手法は学校のシーンで使われていたけれど、建物の大道具がそのままだから、わりとギリギリな表現だったと思う。
そしてキャラクターたち。アニメでは流れていく画面の中で、脇を固めるキャラクターたちは風景となっていく。車窓から眺める風景のように乙女の周りを通り過ぎていく。
そこへ行くと、この舞台版はわりとお客さんに向かって芝居をするから、ペースが上がらないところでは少しチャカチャカした感じもある。アニメ版のような横スクロール型のアクションゲームというよりはむしろ、紙芝居式のアドベンチャーゲームのような印象も受けた。
でも、そこに音楽が入ってくる。それがすべてを変える。
いったん音楽が掛かると非常にエモーショナルなものが生まれる。音楽と音楽が場面を繋いでいって、そうしてひとつの劇ができている。僕はもう少し音楽と音楽の間を詰めても良いと思ったけれど、その辺は原作に対するリスペクトもあるんだろう。
疾走感で言ったらアニメ版には敵わないけれど、音楽がかかった時の心揺さぶられる感覚はこちらの方が上だった。感情を持った生身の人間が演じることによって、なにかとてもエモーショナルなものが生まれる、それはやっぱり演劇ならではだな…と。そんな風に感じた。演劇って良いなって。
たぶん久保さんのファンなんだろう。終演後、「これまで舞台ってちゃんと見たことなかったけど、こんなに面白いんだ」って感想をちらほら見かけた。
うん。
劇中曲「夜は短し歩けよ乙女」歌稽古(舞台「夜は短し歩けよ乙女」メイキング⑤)